京都駅前つれづれ通信

ウオーキングを中心に、日々気付いたことを紹介します。ご意見をお聞かせください。

健康長寿の里 第11回あやべふれあいウオーキング

2013年10月27日(日)曇り時々晴れ 16キロ
場所 京都府綾部市
コース 由良川花庭園~位田橋~栗町市民センター~小西町茶園~小西町公民館~ふれあい牧場~由良川花庭園

「台風に負けない」市民の心意気

 台風27号が日本列島の南海上を通過して広い範囲で大雨が降った。近畿地方が一番影響を受けたのは25日深夜から26日未明。予報をもとに土曜のイベントの多くは中止になった。それゆえ台風の去った日曜は、気楽にウオーキングを楽しめると思っていた。

 が、違った。綾部市内では大雨の多くの爪痕が残っていた。その中でも祭りとウオーキングを成功させようという市民の熱意を感じる一日だった。

 集合場所に指定された由良川花庭園は綾部駅から北へ徒歩15分。白瀬橋南岸の東側河川敷を指す。一辺約6メートルの正方形の花壇やより大型のものが20面以上もあり、秋になるとコスモスが密集して花を咲かせるのでコスモス園とも呼ばれる。秋の一日、コスモス祭りが開かれる。みどり公社や環境市民会議といった市内諸団体が模擬店を出して名産品や食べ物を販売する。ふれあいウオークもタイアップイベントの一つだ。

 ところが由良川花庭園は駐車場になっていて人影がほとんどない。橋の影になって気づかなかったが、会場は西側に移っていた。受付のテントが並び参加者がそれなりに集まっている。恒例の「あやバス絵画大会」の表彰式も行われていた。出会った旧知の市職員は「きょうは所属団体のボランティアで来ました」と話した。公務員の多くは、休日は地域や公益団体の世話役を務めるので、なかなか大変だ。

花壇冠水 2012コスモス祭り
写真①=コスモスの花壇は冠水し、土だけが残った由良川花庭園
写真②=コスモスが咲き誇る昨年の祭り(2012年10月21日)

 なぜ会場を移したのかを主催する市の担当者に聞くと、前々日来の雨で河川敷から約3メートル高い堤防の上辺近くまで増水したという。花壇のコスモスも痛んで取り払われたのであろう。花壇には土だけが残っていた。木枠が流失したものもあり「またやり直しです」と語っていた。一時は中止も真剣に議論されたという。

 実のところ、異変は筆者が京都駅を出発する時から起きていた。午前6時38分発の山陰線は本来6両編成で先頭2両が福知山駅まで直通のはずだ。ところが2両少ないこの朝の4両編成の列車はすべて途中の園部止まり。園部駅で連絡の福知山行きに乗り換えるための駆け足を強いられた。

 きっと前夜に車両が園部駅に止め置かれ、京都駅まで回送されていなかったのだろう。山陰線の京都行き最終列車は兵庫県・但馬方面と福井県・若狭方面の両方からの連絡を、福知山駅と綾部駅でそれぞれ待って発車するので、日本海側のどこかで大雨が降るとべた遅れになる。その場合園部駅で増結予定の4両だけ、京都駅へ定刻に発車させる。遅れて到着する福知山からの2両は園部駅で運行を取りやめる。乗客はJRの駅員がタクシーを呼んで京都方面に運ぶ。昔、そんな目に遭ったことがある。
 
市長あいさつ 出発のゲキ
写真①=歓迎のあいさつをする山崎善也・綾部市長
写真②=綾部市職員による出発の檄。まゆピー、あやちゃんも登場

 広い河川敷は大雨や増水に備えたものであり、水を堤防内に封じ込めて民家への冠水や他の人的物的被害が避けられたことを思えば、むしろ喜ぶべきことだろう。しかし祭りに備えてコスモスなどの準備にあたってきた人の無念さを思うと心が痛む。

 急きょ設けられた会場への通路の両側にフラワーポットのコスモスが並ぶ。片隅のごく狭い一角だけ露地のコスモスが残り、摘み取り体験も行われた。開会式では山崎善也・綾部市長がコスモスに触れ「奇跡的に咲いて生命力の強さを感じます。晴天のもとウオーキングを楽しめる幸せを感じていきたい」と語った。

 当たり前に思っていたものを、失って初めてその価値を知る。綾部のコスモスにもそんなことを思う。

 参加はちょうど300人。一番短い6.5㌔コースに164人、10キロに92人、16キロに44人だった。昨年は333人だったが、向日市との交流ウオークを兼ねており同市から大型バス一台の参加があったことを思えば、人数は実質的に昨年を上回る。リーダー(先頭)とアンカー(末尾)は共催する地元の「北京都(ほくと)ウオーキング協会」役員が務める。この日は同協会の例会を兼ねているので福知山市や舞鶴市からの会員が多い。最長の16㌔コースの顔ぶれを見て「ほくとのもんばっかりやなあ」と感心したように漏らす人がいた。

高城山 由良川倒木
写真①=中世山城の跡が残る高城山
写真①=由良川河床の木々はなぎ倒されていた

 白瀬橋を渡って由良川北岸を西へとる。頂上にひときわ高い数本の木が茂る流麗な高城山が正面に見える。高城山と名の付く山は全国に多いので、綾部市位田(いでん)町にあることから位田高城山と厳密に呼ぶ人もいる。一番高い峰は標高212㍍。室町時代の15世紀後半、山中に築いた城を大軍が攻めた凄惨な歴史がある。

 綾部市街地から近く、登山口から25分くらいで登れるので、今では市民に親しまれる山の一つだ。市民それぞれが何かのスポーツをすることを目指す5月のチャレンジデーには、高城山登山を企画する町内会もある。

 16㌔コースを先導するリーダーは同協会の会長。筆者も時速5キロを超す快調なスピードで歩いているつもりだが、先頭が200㍍から300㍍という具合にどんどん離れていく。由良川堤防を歩いている間は目で追っていたが、以久田橋手前で町中に入ったので、視界から消えた。

左を流れる由良川は泥色に濁り滔滔と流れ行く。水流の横には青々とした木々が下流に向いて横倒しになっている。増水の激しさを示していた。

 綾部市の西部、福知山市に近い小西町は綾部茶の産地。茶畑にぴったりの丘陵地だ。茶の品評会で毎年上位に入賞する人もここにいる。今はシーズンオフなのだろう。芽を柔らかくするため日差しをさえぎる寒冷紗はたたんだままで、防霜ファンも動いていない。お茶と言えば宇治茶が有名だが「宇治茶は京都府全体のブランドなので、綾部のお茶も宇治茶です」といった話を昔聞いたことがある。綾部茶、両丹茶といった呼び方もするという。

小西茶畑 ふれあいCP
写真①=丘陵のてっぺん近くまで広がる小西町の茶畑
写真②=ふれあい牧場のチェックポイントで飲み物のサービス

 小西町公民館のトイレを開放してくれていたので一休み。しばらくすると参加者数人の後に、北京都ウオーキング協会の帽子をかぶった人が来る。アンカーではないかと、あわてて出発する。

 前も後ろも他の参加者の姿が見えず、一人旅の様相となるが、分かれ道ごとに綾部市保健推進課の職員が立って案内してくれるので不安はない。「ここは今田町です。半分過ぎましたよ」などと地名の紹介もしてくれる。

 ふれあい牧場のチェックポイントに到着したのが12時半。コースの4分の3の地点になる。ちょうど先頭がゴールしたとの連絡が入った。約4㌔離されたことになる。

ウサギ広場 ネコ牧場
写真①=ウサギに餌を与える家族連れ
写真②=来場者を見送るネコの写真

 綾部市職員が証明用のスタンプに押印、飲み物を手渡してくれる。金網で区切られたウサギ広場には100羽以上がいた。子ウサギなのか、そういう種類なのか、小ぶりだった。10畳ほどの住居風の部屋はネコ牧場。中には4匹の猫がいるのだろうか。それぞれのプロフィールが張り出されていた。

 あとは一路ゴールを目指す。帰り着いた会場では模擬店のテントに大勢の市民が品定めに訪れ、植木や苗木のテントなど、それなりのにぎわいを見せていた。 
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  1. 2013/10/27(日) 16:36:20|
  2. ウオーキング
  3. | コメント:0

SKYウオーキングお歩きやす京都 明治のみやこ④

2013年10月12日(土)12キロ 快晴
場所 京都市右京区、西京区
コース JR花園駅~木嶋神社~千石荘公園~天塚古墳~蛇塚古墳~大魔神~牧野省三顕彰碑~仲野親王高畠墓~千代の古道~梅宮神社~松尾大社~JR嵯峨嵐山駅

古墳・廃船・大魔神…太秦は魔界だった

 SKYセンターは社会福祉協議会など福祉系諸団体が入居する京都市中京区のハートピア京都に事務局を置く。高齢になっても生き生きと過ごそうというのが設立のコンセプトで、スキーや書道、観光ガイドなど多くの趣味サークルを抱えている。SKYウオーキング歩こう会もその一つだ。

 第一日曜には「日帰り山歩」と題して山寺や山城めぐり。第3日曜には「四季街道」と称して奈良の古寺を中心にめぐる。そして第二土曜のSKYウオークは、テーマを決めて京都を歩く。それぞれ別の世話役がいて当日のリーダーを務める。

 この日はSKYウオークの開催日。センターが発行する季刊誌「SKY」に「お歩きやす京都」というウオーキングコースの紹介記事があり、発行月の1,4,7,10月はそのコースをたどる。今年はNHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公・新島八重にちなみ「明治のみやこ」というシリーズで行っている。

 京都市中心部と景勝地・嵐山を結ぶ現在のJR京都―嵯峨嵐山間の前身が一応整備されたのは明治29(1896)年。嵐電四条大宮―嵐山が同43年に開業した。今回はその途中にある京都市右京区の太秦地区を訪ねる。ここは昭和の一時期まで映画作りのメッカとして知られた。また古墳時代から近世までの歴史遺産も多い。普段は40人ほどらしいが、好天に恵まれてJR花園駅に64人が集まった。

蚕ノ社 千石船
写真①=木嶋神社の境内で説明を受ける
写真②=公園の銘板には昔の千石船の写真があった。

 JR花園駅から南へ、住宅の中の曲がりくねった道を行く。最初の目玉が、蚕ノ社の名で親しまれる木嶋神社。三本足の鳥居が有名だ。能舞台の上には地元の人がみこしの点検をしている。翌日は太秦学区全体を練り歩くと話してくれた。

 千石荘公園には昔、福井県から運び込まれた千石船が置かれていたという。1941(昭和16)年9月に地元婦人会の主催する船の見学会に集まった当時の子供たちの記念写真が銘板に焼き込まれていた。年配の参加者が多く「小学生の時はあった」などと話していた。船は戦後しばらく残っていたが、老朽化により昭和30年代に取り壊されたという。

 曲がり角が多い道だ。住宅の密集する中、細い路地を抜けると森のような一角が現われた。天塚古墳は石室が二つあるのが特徴。石室の奥には稲荷神が祭られている。墳丘の上部にも稲荷神の名を記した石が置かれていた。秦氏の首長の墓だろうが、なぜお稲荷さんが祀られているのか、ネット検索をしたが現在のところ明らかでない。魔界の気分を味わうには、一人で来たほうがいいのかもしれないが。

天塚古墳 蛇塚古墳
写真①=天塚古墳の石室の奥には稲荷明神が祀ってあった。
写真②=蛇塚古墳を覆っていた土はなくなり石室がむき出しになっている

 やはり住宅地の中に、巨大な横穴式石室が露出した蛇塚古墳が現われた。天塚古墳と同じく太秦を中心に京都盆地に勢力を誇った古代氏族・秦氏の首長墓とされる。秦氏は聖徳太子の時に秦河勝が重用された。河勝は推古天皇11(603)年に太子から仏像を賜り、同30年に広隆寺を開いた。だが仏教興隆以前の首長は、その財力をこれら巨大古墳に投入したのだろう。もとは全長75㍍の前方後円墳だが早くから封土を失った。石室は全長17.8㍍で奈良県明日香村の石舞台古墳に次ぐのだが、人家から隔てられた開放空間にある石舞台に比べ、ミスマッチ感が不気味さを増幅する。

大魔神 牧野省三碑
写真①=映画撮影に使った大魔神の実物大の像
写真②=神社には映画作りの功労者・牧野省三の顕彰碑があった。

 大映通り商店街の食品スーパー前には大魔神像が立つ。映画に使ったものと等身大で台座を含めて高さ6メートル。同じ通り沿いにある三吉神社の狭い境内に立つのが「日本映画の父」とされる牧野省三の顕彰碑。裏には長門裕之、津川雅彦、藤田まこと、吉永小百合の名。周囲の石柱にも入江若葉ら昔の俳優、女優の名があった。年配の参加者は「山本嘉次郎(昭和時代の映画監督)が出ていた『自由への扉』というラジオ番組知ってるか」「あんた若いから知らんやろけど、山本富士子という別嬪さんがいたんやで」など昔の話に花が咲いた。

 JR太秦駅に到着し、向かいの公園と駅に隣接する自転車置き場の外壁に分かれて弁当を取る。

梅宮神社 松尾大社酒樽
写真①=酒の神様とされる梅宮神社本殿
写真②=松尾大社には奉納された酒樽100個が並んでいた

 午後からは梅宮大社、松尾大社という二つの酒の神様にお参りする。途中の道は「千代の古道」。舗装され車が往来する現在では想像しにくいが、かつて平安貴族が嵯峨院(今の大覚寺)への遊行のさいに通った。和歌にも多く詠まれ随所に道標が整備してある。

 梅宮神社は奈良時代の左大臣・橘諸兄の母・県犬飼三千代が、諸兄の根拠地の一つである現在の京都府綴喜郡井手町に創建。平安時代初頭に壇林皇后が現在地に移した。皇后が寄進して第54代仁明天皇を産んだことから子授けの信仰もある。

 松尾大社はやはり秦氏の首長の一人、秦忌寸都理が大宝元(701)年に社殿を造営したと伝わる。中世からは酒の神様として厚く信仰され、境内には全国から奉納された多くの酒樽が並ぶ。本殿の左手側だけで約100個が積まれていた。

 松尾から嵐山までサイクリングロードを遡行する。桂川流域では先月の大雨被害で氾濫し、多くの家が水につかった。河床にはなぎ倒された木々が散乱していた。

 JR嵯峨嵐山駅でゴールとのことだったが、到着して待っていると多くは途中の阪急嵐山駅から帰ったとのことで、事実上の流れ解散となった。
  1. 2013/10/12(土) 20:58:19|
  2. ウオーキング
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新選組ウオーク(京都府W協会10月例会ファミリーコース)

2013年10月6日(日)快晴 13キロ
場所 京都市下京区、中京区
コース JR京都駅~不動堂~角屋~光徳公園~壬生寺~八木屋敷~前川屋敷~室町奉行所跡~二条公園~二条城~綾西公園~西本願寺~天満屋事件跡~北小路事件跡~油小路事件跡~JR京都駅

    洛中に新選組の軌跡をたどる

 すっかり朝が弱くなって困っている。9月になって気候も良くなったのでウオーキングを再開しようと週末が近づくたびに思うのだが、早朝はモチベーションが下がって、つい面倒になってしまう。昼近くなって体調が整ってくると「歩けば気持ちよかっただろうなあ」と秋晴れの空を眺めて後悔する。その繰り返しである。5日は毎年参加していた神戸ツーデーマーチを見送った。9月末の天橋立ツーデーも、丹後までの距離を考えるとどうしても足を踏み出せなかった。代替に考えていた五私鉄ウオーク「東播磨の社寺・仏閣めぐり」も同じ運命にしてしまった。

 この日も午前6時に目覚めたがどうしても頭がすっきりしない。8時になってやっと活動開始。至近距離のJR京都駅に午前10時集合という余裕のある設定だったので助かった。9時半に受付をすませて、行きつけのカフェで朝食を済ませ気合を入れる。それでもカメラを忘れたので携帯電話で撮影する羽目になったのだから、やっぱりどこか抜けている。

 京都市の中心部、中京区と下京区に集中する新選組史跡を巡るウオークは、京都府ウオーキング協会(KWA)にとっては得意中の得意。ほとんど毎年、折に触れて開催している。以前は協会役員のユニフォームにも新選組をイメージしたギザギザマークのはっぴを採用しており、今回もコースリーダーはそれを身にまとっていた。新選組副長の土方歳三にちなんで、協会員の土方さん二人が出発式で中央に並んだこともあったが、この日は二人とも姿が見えなかった。

 駅前広場の東側はイベント開催のため、西側で集まるがそこも検診車が入ってきたので追い立てられた。西へ約100メートル。ビックカメラ西側の東塩小路公園に移動する。参加は289人。入りきれない人が路上にあふれた。通行人の邪魔になるので協会役員が「狭いですが中に入ってください」と注意を促していた。この日の京都市の最高気温は31.4度で平年の24.6度を大きく上回る真夏日。8月の灼熱地獄に比べれば大したことないはずだが「10月にこの暑さは異常」としきりにぼやく人もいた。

新選組出発式 壬生寺
P1=出発式。コースリーダーは新選組のはっぴを着ている
P2=新選組隊士が剣術に励んだとされる壬生寺

 新選組は1863(文久3)年に結成され約4年間にわたって京都を中心に主に長州藩などの尊王攘夷派の取り締まりに当たった。多くは関東などの農村の出身で、逆に武士らしくしようとの意識が強かったのか、徒党を組んで我が物顔に京都を闊歩していたことから、眉をひそめる住民は多く、初期の屯所の地名から「壬生浪」(みぶろ)と陰口をたたいた。

 最初に巡るのが「幻の屯所」と呼ばれる不動屯所跡。JR線路近くの不動堂ほこらを中心とした一角に100メートル四方の地を占有したという。だが半年ほどで戊辰戦争のため伏見に駆り出されたという。

 午前中は初期に屯所が置かれた壬生の八木屋敷と前川屋敷を巡る。八木屋敷では観光バスの一行も来てにぎやかだ。「門の中に入らないでください。お金が要りますから」と協会役員の声が飛ぶ。けち臭いと思わないでほしい。有料施設に入ることは滅多にないのだが、それは一カ所にとどまって観光していてはウオーキングにならないからだ。「ウオーキングでは雰囲気だけ味わい、気に入った場所は後日個人で訪ねるのが良い方法」とKWA会員でこのたび傘寿を迎えたSさんも話している。

 壬生の古い住宅街の真ん中が観光スポットになっているので、狭い道に車と人が密集する。協会役員が交差点の四方に立って参加者を交通整理する。中には日ごろの癖で横断歩道以外の場所を渡って注意を受ける人がいる。

八木屋敷 前川屋敷
P1=最初の屯所・八木屋敷は観光バス乗客らでにぎわっていた
P2=前川屋敷玄関から屋内を撮影するウオーカー

 二条城の北側の二条公園で昼食をとる。石組みの水路があるが水は流れていない。到着した参加者は順次その両側の石に腰を下ろして弁当を広げる。ここが本日のコースの北端だ。

 列詰め休憩の公園を除けば、帰りはほぼ直線に堀川通りを南下する。新選組が壬生から屯所を移した西本願寺に着く。豊臣秀吉が庇護した西本願寺は、徳川家康が寺地を提供した東本願寺に比べて勤皇の色が強かったという。新選組にとっては尊皇攘夷派の拠点に乗り込み制圧したようなものだろう。一般隊士は500畳敷の広間を区切って住み、幹部は堂宇や太鼓楼などに個室を持った。寺の北東隅には太鼓楼の説明があった。
 
西本願寺第二屯所跡 伊東甲子太郎
P1=後期の屯所となった西本願寺。太鼓楼の説明看板が見える
P2=「伊東甲子太郎他数名殉難の地」の碑が立つ

 門前の地下道で堀川通りを渡り、一筋東の油小路通りを南下する。七条通りを超えた東側の本光寺前に石碑がある。新選組では脱走すれば死罪という厳格な規律に加え、路線上の対立から多くの隊士が粛清された。特に大きなものが初代筆頭局長・芹沢鴨と、参謀・伊東甲子太郎の二件。この地は伊東の殺害された「油小路の変」の場だ。

 伊東甲子太郎は常陸(茨城県)の人。北辰一刀流の使い手で江戸で道場を構えていたが、新選組の隊士募集に応じて元治元(1864)年に入洛。その実力が認められ副長と同格の参謀というポストで迎えられた。司馬遼太郎の「新選組血風録」冒頭の「油小路の決闘」によると、伊東は新選組を動かして勤皇の志を核とする自らの政治的理想を実現しようと考えたようだ。だが局長の近藤勇や土方と考えが相容れず、慶応3(1867)年3月、自派の隊士を率いて脱退し薩摩藩の肝いりで「御陵衛士」という別の武装集団を作った。東山・高台寺月真院に居を構え「高台寺党」とも呼ばれた。居住した寺の前にも碑が立っている。

 同年11月、伊東は近藤の妾宅に招かれ宴席で酔わされる。その帰路、待ち伏せていた新選組隊士に襲われ斬られる。享年33歳。隊士は急を聞いて遺体を収容しに来た御陵衛士を待ち伏せて、うち3人を斬殺したと伝わる。寺の前には「伊東甲子太郎他数人殉難の地」と刻んだ石碑が立つ。

 年が明けて新選組は戊辰の役で新政府軍を迎え撃つため伏見に移り、多くは戦死する。生き残って江戸に戻った隊士も関東の各地に転戦して屍をさらす。そのような運命に対して、京都の住民はきっと「ざまあみろ」と思ったのではないだろうか。

 表通りに出ればもう京都駅前のにぎわいの中。協会役員にねぎらわれてウオークを終える。
  1. 2013/10/06(日) 15:29:42|
  2. ウオーキング
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