京都駅前つれづれ通信

ウオーキングを中心に、日々気付いたことを紹介します。ご意見をお聞かせください。

京の七口シリーズ⑤「長坂口」周山街道(京都府W協会12月例会)

2012年12月24日(月・振替休日)13キロ 晴れ時々曇り

コース JR円町駅~北野神社御旅所~北野天満宮~鷹峯児童公園~長坂口~大宮交通公園~今宮神社~大徳寺~百々橋跡~相国寺~地下鉄今出川駅

京都の防衛に工夫の数々

 とてつもなく寒い朝だった。集合地のJR山陰線円町駅北側で受け付けを開始する。日は照っているのだが、受付場所は高架になった線路の日陰で、ビル風が吹き込み身が震える。出発式の場所は北へ5分歩いた北野天満宮御旅所。御旅所は住居を兼ねている。朝から多くのウオーカーの話し声がすると迷惑になるので、駅で受け付けをしてから御旅所に行ってもらうことにした。今回初の試みだが、勝手知ったるベテラン会員の中には、駅を通らずバス停から直接御旅所に向かった人もいた。

 京の七口とは、安土桃山時代に豊臣秀吉が京都の周囲に巡らした御土居という土壁の間の、各方面への出入り口を言う。西南から逆時計回りに丹波口、東寺口(鳥羽口)、竹田口、五条口(伏見口)、三条口(粟田口)、荒神口、大原口、鞍馬口、そして本日の目的地の長坂口だ。実際には七つを超える。

北野天満宮本殿前 紙屋川
写真①=良き年を祈願し北野天満宮の本殿に手を合わす
写真②=急な階段を下りて紙屋川のほとりへ

 長坂口は周山街道の起点。旧京都府北桑田郡京北町周山(現・京都市右京区京北周山)を経て南丹市美山町から日本海側の福井県小浜市へとつながる。現在の周山街道ともいうべき国道162号線は金閣寺の裏手から御室仁和寺の門前を通って、モミジの名所高雄を通る。だが昔は京都市北区の鷹峰から杉坂を経て、今の162号線に合し、小野郷、中川という北区北端の集落に続いた。長坂口を示す「御土居跡」の碑は鷹峯にある。

 厳寒の割に参加は多く370人。西大路通りを北上して北野天満宮本殿で参拝する。この日はクリスマスイブで翌日は終い天神。縁日の屋台の準備が行われる中、山門の額は早くも翌年の干支「巳」が飾られていた。

 天満宮の北には御土居がとぎれとぎれに残っている。いくつかの史跡の前を通り過ぎ、紙屋川の水辺の道へ急な階段を下る。石段は度重なる地震のせいか相当傾いており、参加者は慎重に歩を進めていた。

nagasakaguti 長坂口御土居説明
写真①=長坂口にある御土居に到着
写真②=昔のままに残る遺構の前で語り部から説明を受ける

 佛教大学の横手から源光庵前に続く鷹峯の上り坂。長坂口の碑は中腹左手にある。普段は入れないが、この日は管理している和菓子店の好意で中に入れてもらった。

 長坂とは長い坂という意味。千本鞍馬口あたりを起点に、北は中川あたりを指すという。昔の人は荷物運搬用の牛の歩みに合わせたため、さらに長く感じたことだろう。一帯は銘木「北山杉」の産地でもある。川端康成の小説「古都」はこのあたりを舞台にしていた。

 御土居は高さ10~20mの土塁。京都を外敵から守るのが目的で、上には木を植えて境を強調した。上部には人が通れるよう道をつけて、連絡用の高速道路の役割も果たした。長坂口では紙屋川の渓谷と、鷹峯、鷲峰(わしがみね)という二つの山も、防衛に取り込んでいるという。

 長坂口では、京都府ウオーキング協会が誇る語り部が、おおむね上記のような話をしてくれた。

今宮神社 風呂屋カフェ
写真①=巳年の巨大絵馬が飾られた今宮神社
写真②=築80年の風呂屋を改築したカフェ

 昼食地の大宮交通公園には、東へ抜け道をとる。このあたりは京都の市街地でも北にあたり、細かな時雨が寒風に舞っていた。寒い中で弁当を済ませて道を南にとり、今宮神社へ。名物のあぶり餅の店は休業していた。クリスマスより正月に勝負をかける態勢と見た。

 大徳寺の塔頭を両側に見て通り過ぎ、北大路通りを渡る。右手にお風呂屋さんのような建物があるが実はカフェ。 映画「千と千尋の神隠し」に出てくるような唐破風の屋根、格天井と呼ばれる立派な高い天井、和製マジョリカタイル全面張りのアンティークと呼ぶにふさわしい店内だという。築80年の銭湯を改装し、2000年に「さらさ西陣」として開かれた。

百々橋 相国寺北入口
写真①=室町時代末の抗争の舞台となった百々橋の遺構前
写真②=相国寺を通り抜けて今出川のゴールへ

 宝鏡寺門前の東西の通りを百々橋(どどばし)の遺構がある。応仁の乱の火ぶたが切って落とされた場所だ。応仁元年(1467年)5月、この橋には細川勝元は以下の攝津の武将が布陣し、山名宗全方と激しく戦った。ここから、南の方一条戻り橋付近まで主戦場となり、付近が戦火で焼失した。40年後、細川勝元の子政元の跡嗣をめぐって、養子の澄元と澄之が対立、永正4(1507)年6月23日澄之が養父政元を殺し、翌24日、澄元を攻めて、この橋で激しく戦った。澄元は近江へ敗走したが、8月1日には京都へ還り、澄之を攻め滅ぼした。

 この小さな橋には乱世のひとこまが刻まれている。遺構は明治40(1907)年に改築したもので、小川が昭和38(1963)年に埋められたため、元の地に礎石を遺し、ここに移築された。

 堀川寺の内の扇町公園でトイレ休憩の後、相国寺を通って烏丸今出川でゴール。歩き足りないのかJR京都駅や阪急烏丸駅を目指して、烏丸通を下がっていく参加者の姿が目立っていた。
スポンサーサイト
  1. 2012/12/25(火) 08:17:24|
  2. ウオーキング
  3. | コメント:0

プロフィール

きょうつれづれ

Author:きょうつれづれ
京都駅前つれづれ通信へようこそ!

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

未分類 (0)
時事 (2)
ウオーキング (97)
福祉 (1)
歴史 (2)
カフェ・レストラン (4)
書評 (1)
文学 (2)
医療 (2)

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR