京都駅前つれづれ通信

ウオーキングを中心に、日々気付いたことを紹介します。ご意見をお聞かせください。

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野洲・竜王でええもんたべようラリー(その2、苗村神社から鏡、大篠原へ)

2012年10月27日(土)歩行距離10キロ 快晴

コース JR野洲駅~(バス)~銅鐸博物館~コミセン祇王~祇王井川~菅原神社~永原御殿跡~妓王寺~妓王屋敷跡~北村季吟句碑~(バス)~国宝・苗村神社~岡喜本店前~アグリパーク竜王~(バス)~鏡神社~義経元服の池~道の駅竜王かがみの里~平家終焉の地~(バス)~JR野洲駅

義経の元服、宗盛父子の最期

行程は竜王町に移る。バスが昼食場所の苗村神社に到着する。「おなかがすいたでしょう」。出番が来た竜王町のボランティアガイドさんが気遣ってくれるが、小腹がすいたころに「ええもん」を何度もよばれているので空腹は感じない。それでも、なめこの炊き込みご飯に加え、地元の婦人会?の人が振る舞ってくれたみそ汁はおいしくいただいた。
 
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写真①=国宝に指定されている苗村神社の西本宮
写真②=東本宮は重要文化財に指定されている

 苗村神社は東と西に本宮がある。ガイドさんによると東が地元の神様、西がヤマトの神様という。西本宮は国宝に指定されている。後奈良天皇の時代に正一位を授けられたと由緒が書かれていた。16世紀前半の、皇室が最も窮乏していた時期の天皇だ。どんな金品の見返りがあったのだろうか、と思わず推測してしまう。

 岡喜本店で近江牛の焼き肉の振る舞いがあった。一切れずつではあるが寄る年波で消化器が弱っている筆者には十分な量だ。道の駅「アグリパーク竜王」では農産物など地元の名産が販売されている。ソフトクリームも名物の一つ。滅多に食べないが多くの人が列を作るのにつられて食べてみた。牛乳の風味が強いのが特徴のように思った。

 再びバスで鏡神社へ。ここから源平時代の史跡巡り後半に入る。源義経が元服したという場所は今の竜王町鏡にあたる。鏡神社では宮司さんが話をしてくれた。社殿の屋根は檜皮葺が普通だが、ここは珍しくこけら葺きで両端の流麗な曲線が特徴という。30年に一度葺き替えているとのことだった。「火が出るとひとたまりもないので防火設備もつけているところです」と話してくれた。境内には烏帽子掛けの松が、明治の落雷で枯れた。近くには元服姿を映した池のあったとされるところに碑が建っていた。

 源義経は遮那王と呼ばれ鞍馬寺で修行していたが、源氏の再興を胸に鞍馬を抜け出し奥州・平泉の藤原秀衡のもとに向かう。1965(昭和40)年のNHK大河ドラマ「源義経」では歌舞伎役者の尾上菊之助(現・菊五郎)が義経役。弁慶は緒形拳だった。二番目に家来になったのは確か喜平次といったと思う。その後、伊勢の三郎、駿河の次郎、常陸坊海尊といった個性的な面々が加わる。秀衡のもとでは佐藤継信、忠信兄弟が加わるがそれはのちの話だ。道中で元服する場面があった。烏帽子親は誰だったか。秀衡のもとへと導いた商人・金売り吉次(配役・加東大介)だったような気がするが違ったかもしれない。 

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写真①=岡喜本店で焼き肉の振る舞い
写真②=鏡神社本殿で手を合わす参加者

 義経元服の地・竜王町鏡から、平家終焉の地・野洲町大篠原まで歩いていける。壇ノ浦の敗戦で生け捕りにされた平家の棟梁・平宗盛とその子清宗が斬られた地には、街道から離れ狭い地道を入っていく。木がうっそうと茂る中に2つの石が並んで立っていた。薄気味悪い場所だ。それでも近年は関西電力の伐採で、昔より明るくなっているという。

 鎌倉からの帰路、頼朝からの処刑命令は、義経一行が彦根あたりで受け取ったとされる。「宗盛、清宗父子を生かして京都に入れるな」という内容に義経は悩んだ。だが京都までの道のりが残り1日となった野洲の地で、もう決断を先延ばしにできなくなった。あれは何年前だっただろうか。1979(昭和54)年のNHK大河ドラマ「草燃える」だったろうか。死を言い渡す義経に宗盛は「九郎殿、約束が違うではないか」と必死でなじっていた。

 生かして京都に入ったなら後白河法皇からどんな邪魔が入るか分からない。頼朝はそれを恐れたのだろう。

 宗盛父子の首は京都に運ばれ木に掛けられる。日が経つにつれて髪がぬけ、目玉やほほの肉は鳥についばまれる。やがて頭がい骨だけになったころポトリと地に落ちる。さらし首というのは死後も含めて、それほど残酷な刑であったと、ガイドさんが話してくれた。

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写真①=義経元服の池でガイドさんの説明を聞く
写真②=宗盛㊧と清宗の墓碑が並ぶ平家終焉の地

 胴は穴に埋葬された。義経は生後間もなく父義朝が平治の乱で敗死し母の常盤御前が清盛の愛人になったあと、宗盛を兄と思って育った時期がある。2012年の「平清盛」では清盛50歳の宴にやってきた牛若丸(義経)に清盛(配役・松山ケンイチ)が「宗盛、遊んでやれ」と言う場面があった。もっと年の近い息子や甥もいたはずなのに、と不審に思ったのだが、その後の因縁を考えると、フィクションを完璧なものにするためには、ここはどうしても宗盛でないといけなかったのであろう。胴を埋葬したのは義経のせめてもの情けだったという。

 父子の墓碑は高さ数十センチだったが、年代を経るうちに土が堆積したからで、本当は2メートルほどあるという。掘れば人骨が出てくるはずだが、800年以上の間、誰も掘り返す人はいなかったようだ。父子の祟りからカエルが鳴かなくなったとの言い伝えもあるほどだ。近代になって開発がさかんなこの地でも、昔の姿で残っていることは「さわらぬ神に祟りなし」の考え方が浸透していたのだろう。

 大篠原からJR野洲駅までバスで戻る。午後5時近くで、あたりは暗くなりかけていた。野洲駅前の和菓子店「梅元老舗」が参加者のために出店を開いていた。初めて食べたのはもう30年以上前のことだ。店主は当時、野洲町会議員を務めていた。野洲町長を長く務めた宇野勝氏(故人)の家で作る銘酒「玉の春」とともに、筆者にとってはかけがえのない野洲の「うまいもん」である。
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  1. 2012/10/28(日) 22:56:11|
  2. ウオーキング
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野洲・竜王でええもん食べようラリー(その1、野洲市の祇王学区を歩く)

2012年10月27日(土)歩行距離10キロ 快晴

コース JR野洲駅~(バス)~銅鐸博物館~コミセン祇王~祇王井川~菅原神社~永原御殿跡~妓王寺~妓王屋敷跡~北村季吟句碑~(バス)~国宝・苗村神社~岡喜本店前~アグリパーク竜王~(バス)~鏡神社~義経元服の池~道の駅竜王かがみの里~平家終焉の地~(バス)~JR野洲駅

銅鐸のまち、妓王・季吟のさと

 滋賀県野洲市のふれあいハイキングは11月18日で記念の第100回を迎える。今回は99回目。1993(平成5)年からということだから歴史は馬鹿にならない。95年にはJR野洲駅を発着するイベント列車を仕立て琵琶湖を一周した。96年には「ほほえみ野洲町ワンデーマーチ」で三上山山麓から銅鐸博物館へ歩いた。筆者にとってはそれ以来の参加だ。

 「ええもん食べよう」のキャッチフレーズの勝利だろう。定員いっぱいの250人の参加があった。迎える側のボランティアスタッフは約50人との説明はあったが、それはガイドの人だけではないだろうか。うまいもんの振る舞いなど、各自治会館や企業、商店の人が当たってくれていた。それらの人を含めれば50人ではとてもきかない。

野洲受付 銅鐸
写真①=JR野洲駅南口で受け付けを済ませる
写真②=日本最大の銅鐸の模型がある銅鐸博物館ロビー

 野洲市は旧野洲町時代から「銅鐸のまち」を売りにしてきた。銅鐸は、1881(明治14)年に14個、1962(昭和37)年に10個、野洲市小篠原の大岩山から発見された。その中には、高さ134.7センチ、重さ45キログラムと日本一の大きさを誇る巨大な銅鐸もあった。野洲市歴史民俗博物館(愛称:銅鐸博物館)は、日本古代史の謎とされる「銅鐸」の謎解明に迫る日本初の博物館。館内では、野洲市で出土した大岩山銅鐸の展示を中心に、銅鐸の発生から移り変わりや銅鐸の鋳造方法などを興味深く説明している。

 なぜこれほど大量の銅鐸が一か所から出たのか。弥生時代はムラからクニへと共同体が統合されていく時代だ。やがて巨大古墳に体現される権力者の出現を見る。銅鐸は共同体のまつりや神事のシンボルだったが、権力者にとっては自分こそ神として祀られねばならない。それゆえ銅鐸を供出させて大岩山に大量廃棄したのではないか。銅鐸博物館はそんな考え方に立っていたように思う。

 旧町時代の野洲では「ドータくん」というキャラクターを作り「銅鐸のまち」をアピールしていた。今はどうなったのだろうか。

銅鐸博物館フロント 清盛妓女
写真①=出土場所など親切に教えてくれた銅鐸博物館スタッフ
写真②=コミセンぎおうでは清盛と妓女が迎えてくれた

 図書館や福祉センターの前を通りJR琵琶湖線をくぐると祇王学区。南から冨波、永原、江部、北村といった集落がある。昭和の合併で野洲町になる前は祇王村。村名を祇王にしたのは、故事を持ち出すことで名称をめぐる集落間の対立を昇華する狙いだったのだろう。

 祇王(妓王)、祇女(妓女)姉妹は平家物語に登場する白拍子。保元の乱で夫を失った姉妹の母・刀自が野洲の地で2人を育てたという。姉の妓王は時の権力者・平清盛の寵愛を受ける。ある日、加賀出身の別の白拍子、仏御前が訪ねてくる。清盛は追い返そうとするが、妓王のとりなしで舞いをさせる。すると清盛の寵愛は仏御前に移ってしまう。

 妓王は世をはかなんで母、妹ともに尼となり、京都・嵯峨野の庵で暮らす。そこへやってきたのが仏御前。清盛の寵愛を受けていたはずだが、妓王の運命は明日の自分の運命と見抜いた。「仲間に入れてほしい」と尼になる。平家物語の無常観が現れる名場面の一つだ。庵のあったとされる場所には祇王寺がある。

 永原には祇王井川という水路がある。妓王が清盛の寵愛を受けていたころ、故郷のために頼んで造ってもらった。野洲川から3里(12キロ)にわたって水を引き込み、生活用水や農業用水に使ってきた。それゆえ妓王は恩人として今も野洲の人に慕われている。

 おりしも2012年はNHK大河ドラマで「平清盛」を放映中。野洲市でもタイアップして、コミセンぎおうで妓王・清盛まつりを開催していた。入口では清盛と妓女に扮した人が出迎えてくれ、2階の展示室では別の清盛役の人が妓王とカップルで説明していた。3人の人形もあった。

清盛人形 祇王井川
写真①=妓王・清盛まつり会場にあった3人の人形
写真②=妓王が清盛に頼んで野洲川から水路を開いたという妓王井川

 菅原道真にちなむ菅原神社の門前に木工の店が出ていた。一辺約3センチの立方体の木でサイコロを作る趣向。安全のため12の辺の面取りの指導には、徳川家康に扮した人ら3人が当たった。近くの永原御殿にちなんでのことだろう。

 永原御殿には、徳川時代初期には将軍が宿泊し、翌日に京都の二条城に入った。家康、秀忠も使ったが3代家光の時、豪華に改修されたという。4代家綱以降は、幕府の財政難で使われなくなった。建物のあった場所は竹藪に変わっていた。一帯は民有地のため積極的な保存や再建はできないとのことだった。

徳川家康 永原御殿
写真①=徳川家康に扮した人がサイコロ作りの指導をしていた
写真②=右の竹藪に永原御殿があった。説明してくれた場所は溝だったという

 北村公民館前には北村季吟[1624(寛永元)年―1705(宝永2)年]の句碑がある。季吟はここ野洲市北の生まれ。医学から古典や和歌・俳句の研究に転身し、古典を分かりやすく説明した「源氏物語湖月抄」や「枕草子春曙抄」を執筆した。弟子に俳聖といわれる松尾芭蕉がいる。季吟は芭蕉にだけ、俳句作りの秘訣を記した「埋木(うもれぎ)」の書写を許した。

 晩年は5代将軍徳川綱吉の指南役として江戸で暮らしたが、ふるさとの幸せを願って詠んだ「祇王井川に とけてや民も やすこほり」の句を残し、碑に刻まれている。「やす」は「野洲」と「安らか」の掛詞だろう。野洲市では郷里の偉人・北村季吟にちなむ俳句大会を開き市民の作品を募集。文化の振興にも役立てている。

北村季吟句碑 季吟団子
写真①=北村季吟句碑前で。左の人は季吟、右の人は弟子の松尾芭蕉に扮していた
写真②=春菊を練りこんだ季吟団子をあぶる

 碑の両側では季吟、芭蕉に扮した二人が、季吟の事跡を説明していた。その近くでは、菊菜を練りこんでみたらし団子風に仕上げたうまいもん「季吟だんご」の振る舞いがあった。菊菜は旧町時代には中主町の名産。野洲市になったので市を挙げた行事でPRできる。小さなことだが合併の効果を感じた。

 午前中の行程はここで最後。バスで竜王町へと向かう。
  1. 2012/10/27(土) 19:58:05|
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第10回あやべふれあいウオーキング(向日市・綾部市交流ウオーキング)

2012年10月21日(日)15キロ 快晴
場所 京都府綾部市
コース 由良川花庭園~JR綾部駅~寺山~大本本部~正暦寺~綾部大橋~紫水ヶ丘公園~中央公民館~由良川花庭園

平和のまちで健康長寿を実践

 綾部市役所のてっぺんには、市の目指す標語を記した四角柱がある。その中で「世界平和」「ものづくり」などと共に掲げられているのが「健康長寿」。市は健康長寿の実現のためウオーキングを積極的に取り入れている。モデルコースも決めて手軽に歩けるようにしているが、「ふれあいウオーク」は年1回の晴れの場。2003年から始まり記念の第10回を迎えた。

 今年の大会は「向日市・綾部市友好交流ウオーク」も兼ねる。京都府北部の綾部市と南部の向日市は、共にウオーキングを健康づくりに取り入れている縁で毎年交流ウオークを行っている。偶数年の今年は綾部市が会場だ。向日市からは兒玉幸長副市長を団長に、バス一台が到着した。

 筆者は午前6時38分に京都駅を発ち、綾部到着は8時20分ごろ。スタートゴール会場の由良川花庭園には午前9時前の到着。あやべ市民バス(愛称・あやバス)の赤い車体と、あやちゃん、まゆピーの綾部市が誇るゆるキャラ2体が場を盛り上げていた。

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写真①=綾部市のキャラクター、まゆピー㊧とあやちゃん
写真②=元気な掛け声とともにスタート。山崎市長(右から2人目)、兒玉副市長(その左)らも唱和 

 あやちゃんは2011(平成23)年秋に誕生した新しい食のキャラクター。帽子が丹波くり、髪留めが梅干し、鼻は黒豆、体が賀茂なす、手にはくりご飯、座布団にアユを表している。

 まゆピーは、養蚕とともに発展してきた歴史と国内初の「世界連邦都市宣言」をしたことを表現したキャラクター。1990(平成2)年に市制40年を記念して誕生した。丸みを帯びた体は蚕の繭であるとともに、平和(ピース)を貴ぶ市民の和(輪)を表現しているという。

 出発式には15キロ、10キロ、6キロの3コースごとに列を作る。主催者の山崎善也・綾部市長が平和都市としての歩みを語れば、兒玉・向日市副市長は「健康寿命が伸びます」と歩く効用を説いた。スタートが近づくにつれて、丹波霧が晴れて明るい日差しが差し込んでくる。

 大会はほぼ毎年コースを変えている。初期には市西部の私市円山古墳や市街地北方の桜ヶ丘団地を回った。昨年の最長コースは綾部駅の一つ京都寄りの山家駅まで由良川の両岸を歩く20キロコースだった。今年は健康づくりの山として親しまれている寺山と、文教施設がある久田山に登る15キロコースだ。

 歩き出してすぐに目に入るのが男性用肌着大手・グンゼの施設。右側が本店で左側は集蔵(つどいぐら)と呼ばれるイベント会場だ。創業者の波多野鶴吉が、1896年(明治29年)に蚕糸業の振興を目的に郡是製絲株式會社として設立した。蚕糸業からは1987年(昭和62年)に撤退する一方、プラスチック製品や電子部品の製造など非繊維分野にも拡大している。本社機能は大阪に移したが、綾部が誇るものづくりを体現する企業の一つだ。

 JR綾部駅の橋上駅舎を越えて駅前通を南へ。綾部協立病院から神宮寺町への坂道になる。登り口から石段を突き当たるとグンゼ創業者・波多野鶴吉の墓所である五輪塔がある。寺山への山道は五輪塔左側から入っていく。どんぐりがたくさん落ちている。「熊が食べに来ないのかな」「こんな人里近い山には近づけないよ」と近くにいた夫婦が話していた。 

 IMG_1498_convert_20121021205538.jpg 寺山
写真①=神宮寺町に入ると正面に寺山が見えてくる
写真②=寺山山頂でお茶の接待

 山道に入って20分弱で山頂に着く。丹波山地の渓谷から福知山盆地に流れ込む由良川の清流を眼下に望む。市街地から近く手軽に登れるので毎日登る人もいる山だ。元日と終戦記念日の年2回、早朝に市の主だった人や希望者が登山し、音叉の形をした平和の鐘をたたいて暮らしの安全や一年の無事を祈願する。元日は式典の最中に初日が射し込む。心が洗われる瞬間だ。

 お茶の接待を受けて、写真を撮っていると15キロコースのアンカーを務める北京都(ほくと)ウオーキング協会の会長が到着した。3コースとも、綾部市を本拠の一つとする同協会の役員がリーダーとアンカーを務めるが、この日は例会も兼ねている。15キロコースには足自慢の会員が福知山市、舞鶴市からも多く参加していた。アンカーより遅れるわけにいかないので下山路に向かう。

 宗教法人・大本の本部に着く。大本は1892(明治25)年、開祖・出口なおが「三千世界の立て替え立て直し」を宣言したのが始まり。1899(明治32)年に聖師・出口王仁三郎が入り、開祖の五女と結婚し大本の基礎を築いた。その後、教勢が飛躍的に伸びたことから、影響力を恐れた国から1921(大正10)年と1935(昭和10)年に弾圧を受けたが1945(昭和20)年の無罪判決により全面解決した。

 高橋和巳の小説「邪宗門」はこれらの事件をモデルにしているという。長編なので読み通せないまま今に至っている。松本清張も短編小説に書いていた。官憲が内部文書を暗号として強引に読み解き、不敬罪をでっちあげる筋書きだったように記憶する。

 写真を撮っていてかなり後方になったせいか、周囲に仲間のウオーカーはいない。掃き清められた庭を通り抜ける。正月7日には「七草がゆ」の振る舞いがあり、信者以外でも味わうことができる。綾部に特に大本の信者が多いとの印象はないが、市内の団体の記念式典に大本の建物を使うこともあった。平和都市に漂う宗教色には、大本の影響は確かにあると思う。

平和の鐘 大本本部
写真①=寺山山頂にある平和の鐘は音叉の形をしている
写真②=大本本部では淡交会両丹支部の研究会が行われていた

 正暦寺では冬になると、護摩壇に点火し願いごとが書かれた護摩木を投じる那智山不動明王大祭でにぎわう。旧綾部藩主九鬼氏が参勤交代の際、道中の安全を祈って立ち寄ったことにちなむという。大根炊きの振る舞いもあり大祭の日はにぎわうが普段は静寂そのもの。この日も境内は無人だった。
 
 由良川縁に下り「丹波茶屋ゆらり」と「料理旅館 現長」の前を通ってから川を渡り国道27号線に出る。綾部の地酒「綾小町」を造る若宮酒造の向かいの角を鋭角に曲がり紫水ヶ丘への登りにかかる。親子連れをケアしながら歩く6キロコースアンカーは同協会の事務局長。一声かけて先に行き、公園に入ると市のスタッフから飲み物の提供を受けた。

正暦寺 紫水ヶ丘
写真①=寺町の正暦寺は静寂そのもの
写真②=紫水ヶ丘公園では綾部市職員が飲み物を配ってくれた

 三ツ丸ストア前で再び国道を横断する。コースの要所にはピンクのウエアを着た綾部市職員が道案内に立ってくれている。八田川を渡って久田山の登りだ。

 久田山は綾部の文教地区。丘陵部に京都府中丹文化会館、綾部市中央公民館、綾部市資料館、綾部市天文館「パオ」がある。文化会館と公民館では中学校や養護学校の合同文化祭を行っていた。山を下り白瀬橋を渡るとゴールの由良川花庭園。コスモスが咲き誇る花壇の横で、綾部市の諸団体が出すブースがにぎわっていた。 
  1. 2012/10/21(日) 20:47:58|
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第14回和泉弥生ロマンツーデー第2日・和泉の歴史にふれあう

2012年10月14日(日)10キロ 曇り時々晴れ
コース アムゼモール広場~室堂町~池田寺~池田下町~東阪本町~郷荘神社~西福寺~槇尾川公園~弥生町~アムゼモール広場

雷公の井戸、くわばらくわばら

 二日目も10キロコースにエントリー。昨日と同じく鼓聖泉の和太鼓演奏で出発式の幕が開く。春奈佑果さんという女性司会者がなめらかに進行してくれる。南大阪ウオ―キング協会会長のあいさつのあと出発の檄。この日は大阪湾に近い市北部を歩く。

 もっと長いコースなら葛葉稲荷神社、池上曽根史跡公園、弥生文化博物館といった弥生遺跡や信太の白狐伝説にちなむ名所を訪ねることもできたが、10㌔コースの名所はほとんど西福寺(和泉市桑原町)だけと言っていい。鎌倉時代初期に東大寺再建に尽力した俊乗房重源上人はこの地で生まれたという伝説があり、西福寺の中興の開基と伝えられる。

 その重源上人がこの地で雨乞いの儀式をしていた時に、本堂の隣にあった井戸でお婆さんが洗濯をしていた。雨乞いの効果がてきめんとなり、にわかに黒い雷雲が空を覆い、夕立となった。

 ゴロゴロという雷鳴と共にその井戸に雷が落ちたのだが、落ち着いていたおばあさんは、すかさず洗濯中のたらいで井戸に蓋をして雷を閉じ込めてしまった。おばあさんは、井戸に落ちた雷に説諭し、雷を逃がすかわりに二度とこの地に落ちないという約束をその雷から取り付けた。

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写真①=司会の春奈佑果さんと手話通訳の女性
写真②=西福寺の本堂

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写真①=本堂右手に雷を閉じ込めたという井戸がある
写真②=井戸は大石でふたをしてあった

 その時の約束とは、ゴロゴロと雷の音がした時に「くわばら、くわばら」と村人たちが唱えれば、この地が桑原であることが分かるので、雷が間違って落ちることがないというものだ。この約束を交わしたのちに雷は解放され、天に戻ることができた。

 この逸話がもとで、「くわばら、くわばら」と唱えることが雷封じの呪文となった。今ではこの風習が全国に広まり、雷が鳴れば「くわばら、くわばら」と言えば雷が落ちないと、日本人なら誰もが知っているはずだ。

 雷を閉じ込めたという井戸は本堂右手奥にあり、大きな石でふたがしてあった。さい銭のつもりだろう。その上には小銭が置いてあった。

 寺にいたボランティアガイドさんによると、この話は江戸時代以降に広まったようだ。寛政8(1796)年に刊行された和泉名所図会に記されている。境内には重源の墓もあるはずだが「ご住職がバイクで出て行ってしまったので分からない」との返事だった。

 西福寺を出るとあとは、住宅街の中の広い道を一路アムゼモールに向かう。正午過ぎにはゴール。なんだかあっさり終わってしまった。
  1. 2012/10/11(木) 20:46:16|
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第14回和泉弥生ロマンツーデー第1日・歩いて広がる和泉のわ(和・輪)

2012年10月13日(土)10キロ 快晴
コース アムゼモール広場~くすのき公園~松尾寺~久保惣記念美術館~北松尾小南~アムゼモール広場

信長の焼き討ち、秀頼が復興

 京都から中央会場最寄の泉北高速鉄道和泉中央駅までは、JR京都線、大阪市営地下鉄御堂筋線、南海高野線、(泉北高速線に直通乗り入れ)と乗り継いで、順調で1時間半かかる。和泉中央の名前通り、地理的には和泉市の中央部だが同市の市役所や市民会館などの中核施設はほとんど北端のJR阪和線和泉府中駅付近にある。和泉中央駅付近は新興住宅地で、イズミヤを核店舗とする駅前商業施設のアムゼモールがその中心をなしていた。

IMG_1428_convert_20121025191438.jpg 和泉和太鼓
写真①=和泉市の和太鼓グループ「鼓聖泉」が勇壮な響きを披露した
写真②=くすのき公園でハーブティーのサービス

 広場に設けられたステージで催された出発式では立石元義・和泉市観光推進委員長と村井良之・和泉市商店連合会会長が歓迎のあいさつ。地元の和太鼓グループ「鼓聖泉(こせいせん)」が勇壮な響きで見送ってくれた。

 しばらくは、新興住宅が並ぶ中を行く。やがて家の数が減ってきたころ、地域の運動公園といった雰囲気の、くすのき公園に到着しチェックポイントの押印を受ける。ハーブティーの接待があった。

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写真①=松尾寺の本堂
写真②=伝教大師の幼形像

 松尾寺へは登りだが距離はそれほどない。到着は午前11時だが、10キロコースでは一番の観賞ポイント。ボランティアガイドに質問をさせてもらった後、じっくり弁当を摂る。

 松尾寺の開基は672年(天武天皇元年)。役行者が当地で7日間修法し、霊木を得て如意輪観音を刻んで安置したという伝説がある。その後、天台宗の寺となった。1581年(天正9年)には織田信長が紀州高野山攻めの際に松尾寺も攻撃し、諸堂を丸ごと焼き払ってしまった。現在の松尾寺は、その後、豊臣秀頼の寄進などにより再建されたものである。

 境内には本堂のほか伝教大師(最澄)幼形像や、信長の焼き討ちの際に寺宝百数十点を保護した長諭和尚の顕彰碑、江戸時代の鐘楼など見所が多彩だ。源義経が一の谷の合戦で亡くなった将兵の首を船で運び納めたという首堂もあった。

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写真①=源義経が一の谷の合戦で亡くなった将兵の首を葬った首堂
写真②=奈良県出身のシンガーソングライター「りえちょ」のライブ

 ゴールは午後0時20分。ステージでは「りえちょ」という女性シンガーソングライターがライブ演奏を行っていた。奈良県出身で19歳だという。あまりに日差しが強く、観客席に数人しかいなかったのは気の毒だったが…。とはいえ2日目のウオークもあるので、早々に会場を後にした。 
  1. 2012/10/11(木) 19:59:07|
  2. ウオーキング
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京の七野巡り(京都府W協会10月例会ファミリーコース)

2012年10月8日(月・体育の日)12㌔ 快晴
コース JR円町駅~北野天満宮御旅所~北野天満宮(北野)~平野神社(平野)~柏野小学校(柏野)~上品蓮台寺(蓮台野)~船岡山~今宮神社(上野)~大徳寺(紫野)~櫟谷七野神社~大極殿跡(内野)~JR二条駅

遺体の捨て場から住宅街に

 平成の世の天皇陛下が4月末、自らの葬儀について「できるだけ簡素に」との意向を示された。具体的には火葬の復活と陵墓の小規模化が中心だ。国民の負担を軽減したいとの解説を読んで、死後の散骨を望み実現したとされる第53代淳和天皇のことを思い起こした。

 淳和天皇(786―840、在位827―837)は、上皇となっていた西暦840年(承和7年)、今の京都市右京区の阪急西院駅近くにあったとされる離宮・淳和院で亡くなった。臨終に当たり上皇は「墓があると鬼物が入ってたたりを為すので散骨するように」と遺言。中納言の藤原吉野が「墓がなければ何に向かってしのべばいいのですか」と諌めたが聞き入れなかったと歴史書「続日本後記」にある。上皇の遺骨は遺志通り、京都市西京区の小塩山に散骨されたという。

 墓があれば節目の回忌ごとに法要を営まないといけない。そのたびに庶民を動員しなければならない。鬼物を持ち出したのは周囲を納得させる理由づけで、庶民の負担を軽減することこそが散骨の狙いだったとの説を聞いたことがある。

 散骨というと極端に見えるが、葬送儀礼も時代の影響を受けざるを得ない。現在のように遺体を手厚く埋葬するのが通例なら、仮に天皇が散骨を望んでも周囲が許さないだろう。だが、平安時代初頭は仏教の影響を受け、精神を尊び肉体を蔑視する時代だった。それを思えば散骨という薄葬も、上皇という貴人だからこそ許されたとみるべきだろう。

 現に庶民は、死ねば遺体は打ち棄てられた。その場所になったのが平安京大極殿のすぐ北方の七野と呼ばれる場所だったという。平安京の中心を南北に貫く朱雀大路は、現在、千本通りと称される。命名の由来は、死者や瀕死の病人を打ち棄てたところに千本の卒塔婆が立ったこととされる。

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写真①=真新しい社殿の前で催された京の七野巡り出発式
写真②=船岡公園のステージで平安京の昔を語る京都府ウオーキング協会の説明担当者

 前置きが長くなった。京都府ウオーキング協会では2012年10月8日、七野をめぐる例会を開催した。遺体を捨てた地というおどろおどろしい面影はなく、年を重ねた住宅が密集していた。

 JR山陰線円町駅から徒歩約5分の北野天満宮御旅所が集合地。好天に恵まれ次々と参加者が到着する。入り口の鳥居から道路に伸びる受け付けの列に、「近所に迷惑だから中に入って並んでもらえ」と役員の声が飛ぶ。改修間もない真新しい社殿の前で出発式を行う。

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写真①=櫟谷七野神社に到着するウオーカー
写真②=内野児童公園にある「大極殿跡」の碑

 七野とは北野、平野、柏野、蓮台野、上野、紫野、内野を言う。北野には北野天満宮、平野には平野神社がある。柏野には柏野小学校、蓮台野には通称千本釈迦堂と呼ばれる上品蓮台寺がある。上野は今宮神社一帯を言うらしく、紫野上野町という地名もある。今は洛北の西部を広範囲にわたって指す紫野は、本来は大徳寺から南にかけての一帯らしい。

 北野天満宮のシンボルといえば牛。参道両側の牛の像をさすって頭がよくなるようにと祈願する人がいるが、牛はいずれも足を折り曲げて伏した姿をしている。「ところが一頭だけ立った牛の像があるという。どこか」と説明員がクイズを出していた。本殿の中らしく、祭神・菅原道真の大宰府への左遷を嘆いてか、悲しげな表情だという。

 今宮神社を出たところにあるあぶり餅の店。日曜の昼下がりとあって観光の人手でにぎわっていた。

  紫野の南端あたりに葵祭の斎王が詣でたという櫟谷七野神社がある。細い道を入った分かりにくい場所。観光コースから外れた穴場だ。

 コース南端近い千本丸太町交差点西北側の内野児童公園に平安京「大極殿跡」の碑が建っている。平安京は右京に当たる西部は低湿地で早くに衰退したという。内野の名は平安京の内側だから付いたといわれるが、大極殿近くのこんな場所でさえも遺体の捨て場であったのか。

 2012年のNHK大河ドラマ「平清盛」が始まったころ、兵庫県知事が「映像がきたない」と批判したことがあった。だがそのような汚わいな都であればこそ、遺体を大極殿近くに放置したというのも納得がいく。

 ≪付記≫平成の天皇・皇后両陛下の葬送や陵の在り方を検討していた宮内庁は2013年11月14日、江戸時代初期から約350年続いた土葬をやめて火葬にすることなどを柱とする検討結果を発表した。天皇陛下が望んでいた同じ陵に遺骨を収める合葬は見送るものの、昭和天皇より規模を縮小し、二つの陵を寄り添うように並べ、一体化した形で造営することも決めた。
  1. 2012/10/11(木) 11:07:08|
  2. ウオーキング
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魚崎から神戸の川と灘の山麓を満喫しよう あましん・阪神そぞろあるき

2012年10月7日(日)11キロ 晴れ
コース 阪神魚崎駅~御影公会堂~護国神社~王子公園~旧臨港線線路跡~花時計~阪神三宮駅

戦前の公会堂、今も集いの場

夏の間はとても歩くどころではなかった。涼しくなるととたんに歩きたくなる。神戸ツーデーでは10キロという比較的短い距離だったのに、ウオークから遠ざかった体にはつらかった。それからわずか一週間だが、節制し満を持しての参加だ。阪神電鉄主催だが、スタート場所の魚崎駅には、京都からだと大阪駅で阪神電車に乗り換えるより、JR住吉駅まで行き、六甲ライナーで一駅乗るほうが便利だ。

住吉川 本住吉神社
写真①=受付場所の住吉川。砂利が堆積し植物が繁茂している
写真②=本住吉神社。

 受付場所は駅の下を流れる住吉川遊歩道。すでにたくさんのウオーカーが並んでいた。川の中に草木が繁茂しているのを見て、隣にいた人が話していた。「上流からの土砂を取り除かないからこんなに生えてしまった。大雨が降ると氾濫して危険なのに」。兵庫県土木事務所か神戸市か、どちらの責任よく分からない。ただ阪神間の川は六甲山系からの急勾配で天候によっては危険なことがある。現に住吉川でも近年、鉄砲水で女児4人が亡くなっている。

 神戸市東灘区役所と東灘消防署、兵庫県警東灘署と国道2号線の東灘区中心部を歩く。本住吉神社ではお宮参りの家族連れが目立った。御影公会堂は1933(昭和8)年の建築。見かからに古い。3階建てでホールのほか会議室や和室があり、入ってみると床がミシミシいうが、今も集まりに使われている。ロビーに灘の清酒がずらりと並んでいるのが目を引いた。地下には創建当時から営業している老舗のレストランがありオムライスが名物というが、着いた時にはまだ10時半で開店していなかった。残念。

御影公会堂 灘の酒
写真①=見るからに古さを感じさせる御影公会堂
写真②=ロビーには灘の清酒がずらりと並んでいた

 兵庫県の戦没者を祀る護国神社の門前を過ぎ、神戸市民の憩いの場、王子公園に着く。行楽シーズンの日曜とあって動物園前には大勢の家族連れがいた。JR灘駅前を通ってしばらく行くと神戸臨港線跡の道路へ右折する。神戸市立科学技術高校付近の約200メートルにわたりミニSLの線路が敷かれ、通りかかった時には同校の生徒がSLの手入れをしていた。

 道なりに浜に出る。鉄製の四角い箱ののような建物があった。入ってみると川崎製鉄葺合工場の記念館。工場は1995(平成7)年12月に閉鎖されたという。その年1月の阪神大震災で被災したのが響いたようだ。周辺は広い海岸道路と高層住宅群。震災から17年が流れた。新しい街が出来上がるには十分な歳月といえる。

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写真①=川崎製鉄の工場だった場所は海浜の遊歩道と高層住宅に姿を変えていた
写真②=三宮駅南側で繰り広げられた路上パフォーマンス

 神戸市役所前から北側の日本最古という1957年建設の花時計を横目に三宮駅へ。駅近くには路上パフォーマンスや署名、募金活動でにぎわっていた。
  1. 2012/10/07(日) 20:32:02|
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