京都駅前つれづれ通信

ウオーキングを中心に、日々気付いたことを紹介します。ご意見をお聞かせください。

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加賀百万石ツーデーウオーク2日目 男川(犀川)Eコース

2012年5月27日(日)20キロ 快晴

コース JR金沢駅~長町武家屋敷跡~にし茶屋街~寺町寺院群~犀川河畔~辰巳用水~天徳院~金沢城公園~近江町市場~JR金沢駅

旧藩の水路、今は遊歩道に

 二日目は、豪快な流れから「男川」と称される犀川べりが舞台となる。スタートしてまず、長町の武家屋敷跡に向かう。大野庄用水に沿って瀟洒な店が並ぶ一角は、やがて藩政時代の家並みに姿を変える。武家屋敷跡野村家、金沢市老舗記念館など、公開されている昔の建物も多い。犀川を渡って、金沢3茶屋街の一つ、にし茶屋街に入る。

 寺町寺院群を過ぎ、犀川に架かる桜橋が10キロコースとの分岐点。名前の由来は、桜色に塗られているためか、桜の名所でもあるためかどちらだろうか。遡行して大桑・犀川緑地公園が27キロコースとの分岐。ロングコースをとれば前田家の歴代墓地を訪ねることができたのだが…。

武家屋敷 犀川桜橋
写真①=藩政時代をしのばれる武家屋敷の中を歩く
写真②=犀川沿いを歩く。後方は桜橋

 辰巳用水の遊歩道入り口で、再び27キロコースの人と合流する。辰巳用水は、金沢城で使う水を引くために開削された11キロの水路。江戸時代初期の寛永9(1632)年に小松の町人・板屋兵四郎という人が完成させた。規模の大きさ、正確さ、技術の高さから、全国的にも貴重な遺跡という。水路に沿って金沢市が1994(平成6)年に遊歩道を整備した。

 途中の小立野文化会館という地域の集会所を昼食場所に当てていた。集会所を開放してくれて、足を伸ばして弁当を食べられるのがありがたい。

 市の中心部に戻ると、左側の公園内に石川県立歴史博物館が見える。煉瓦造り2階建ての3棟で1909(明治42)年から1914(大正3)年にかけての完成。戦前は金沢陸軍支廠兵器庫だったが、1986(昭和61)年から歴史博物館となり1990(平成2)年に重要文化財の指定を受けている。

辰巳用水 石川県立歴博
写真①=辰巳用水沿いの遊歩道。地元の人が花を育てていた
写真②=かつての兵器庫は歴史博物館として親しまれている

 金沢城は天正11(1583)年、前田利家により本格的な城づくりが始められた。完成後間もない慶長7(1602)年、落雷により天守閣が焼失した後、天守閣は再建されず、本丸には三階櫓と二の丸には御殿が建てられた。宝暦9(1759)年の火災では、城のほとんどを焼失。その後の再建では、実用性を重んじ、二の丸を中心とした整備が行われ、本丸の櫓は再建されなかった。2001(平成13)年に復元された菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓は、文化5(1808)年の二の丸火災の後再建され、1881(明治14)年の火災で焼失したもので、安政頃の景観を再現したという。

 一時期は金沢大学のキャンパスになったこともあったが、今は市民に開放されている。

金沢城跡公園 参加人数
写真①=金沢城公園。数度の火災を経て姿を変えてきた
写真②=2日間の参加者は延べ1750人でした

 公園内のチェックポイントを過ぎると、駅のゴールまでは気ままに散策コース。金沢市民の胃袋といわれる近江町市場を通って帰る。鮮魚店が多く、中にはとれたてのネタを提供する寿司店もあり、弁当を食べた後だったのに食欲をそそられた。
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  1. 2012/06/03(日) 13:24:44|
  2. ウオーキング
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加賀百万石ツーデーウオークプロローグ1 室生犀星記念館を訪ねて

   抒情詩人犀星 晩年の「女性好き」

小景異情 その二

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食(かたゐ)になるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや

徳田秋声泉鏡花室生犀星 金沢青バス
写真①=兼六園下にある3文豪の像。左が犀星、中央は泉鏡花、右は徳田秋声
写真②=金沢の観光用の青色循環バスには「犀星」の名がある

 ウオーキングで各地を旅行する楽しみの一つは、歩いた後にその土地の作家の記念館を訪ねることだ。これまで印象に残っているのが岩手県花巻市の宮沢賢治と北九州市小倉北区の松本清張だった。さて金沢では3人の文豪がいる。徳田秋声、泉鏡花、室生犀星。いずれも近代文学史に登場する個性派だが、私にとっては正直、賢治や清張ほど身近でない。その中では昔、高校の教科書に載っていた「小景異情 その二」に感動した体験があったことから、室生犀星記念館へと足を運んだ。

 室生犀星[1889(明治22)~1962(昭和37)]の前半生は過酷だった。加賀藩にて足軽組頭を勤めた小畠弥左衛門吉種を父とし、ハルという名で小畠家に奉公したとされる女中を母として生まれた。生後7日で生母から離され7歳の時に犀川大橋詰の真言宗寺院雨宝院の住職、室生真乗の養嗣子となり、室生姓を名乗ることになる。寺の奥方の顔色を見ながら、おびえて過ごす日々だったと後に書き記している。高等小学校を卒業後、裁判所給仕の職を得る。やがて退職し文学を志して東京へ出るが一度は挫折、金沢に帰郷する。「小景異情 その二」はそんな折の屈折した心情を抒情的に歌い上げている。

 あんず詩碑 犀星直筆原稿
写真①=犀川河畔にある犀星の詩碑
写真②=宿泊したホテルに飾られていた自筆原稿

 犀星は犀川をこよなく愛した。犀川大橋を上流へ向うと、流し雛を型どった赤御影石の犀星詩碑がある。春にはその頭上をあんずの花で飾る。犀星自筆の陶板には「小景異情」の一節あんずの詩が刻まれている。

 小景異情 その六

あんずよ
花着け
地よ早やに輝け
あんずよ花着け
あんずよ燃えよ
ああ あんずよ花着け
 
 宿泊したJR金沢駅近くのホテル2階宴会場の廊下に、犀星の自筆原稿が、鏡花の色紙、秋声の短冊とともに飾ってあった。実物はホテルが所蔵しており、複製にして展示していると、仲居さんが教えてくれた。

 蝉頃

いづことしなく
しいいとせみの啼きけり
はや蝉頃となりしか
せみの子をとらへむとして
熱き夏の砂地をふみし子は
けふ いづこにありや
なつのあはれに
いのちみぢかく
みやこの街の遠くより
空と屋根とのあなたより
しいいとせみのなきけり

犀星記念館フロント 雨林院
写真①=生誕の地に建っている室生犀星記念館フロント
写真②=犀星が生まれてすぐ引き取られたという雨宝院

 抒情的な多くの詩を残し文学の道を極めた犀星は、小説に転じここでも文壇の賞賛を浴びる。戦後の一時期、人気作がなく忘れられた感があったが、随筆「女ひと」で脚光をあびる。その中の「えもいわれざる人」で次のように言う。「少女は翻訳調の名文よりか、革の手袋とか時計とかを、よろこぶものである」。

 一流詩人といわれた人だ。その詩は大正時代の少女の心をときめかしたことだろう。それなのに、女性の心を捉えようとする際には、文学の力などプレゼントに及ばないと、見切ってしまっていることが興味深い。

 室生犀星記念館のビデオ映像で、詩人で近代文学研究者の伊藤信吉氏と、堀辰雄の妻で随筆家の堀多恵子さんらが、犀星の思い出を語っている。その中に既に老境に入った犀星が「私が電車に乗るのは、女生徒の足を見たいからだよ」と語ったと話している。

 ハッとするようなエピソードだった。筆者は早朝の電車で任地に向かう際、乗り合わせた通学の女子高生から「他人の足ばかり見て身持ち悪いですよ」と抗議を受けたことがある。二日酔い状態でぼんやりと、対面するドアの窓から外を眺めていたのだが、ドアの傍らに制服のスカートを短くした生徒が立っていたのだ。幸いそれ以上の騒ぎにはならなかったが、痴漢の冤罪に巻き込まれるとはこのような状況かと恐ろしく思ったことがあるからだ。

 「いい歳をして」とは言うまい。むしろ老境に入ったからこそ好色な気持ちが頭をもたげてくるのかもしれない。親しい仲間に漏らした本音が、没後にエピソードとして公開されるとは、犀星もよもや思わなかったであろう。

 犀星は好色さを晩年の文学に昇華させたのであろうか。「心の欲するところに従えど矩を超えず」の心境に至ったのだろうか。後期の作品を分析しないと何とも言えないが、いずれにしても晩節を汚すことなく天寿を全うできたことは幸せであった。
  1. 2012/06/03(日) 10:51:41|
  2. 文学
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加賀百万石ツーデーウオーク第1日 女川(浅野川)Bコース

2012年5月26日(土) 22キロ 晴れ

コース JR金沢駅~杜の里緑の散歩道~尾﨑神社~朝霧公園~卯辰山公園~ひがし茶屋街~卯辰山山麓寺院群~主計町茶屋街~JR金沢駅

昔を伝えるお茶屋と寺院群

 金沢市の中心街は香林坊と片町が有名だ。JR金沢駅から香林坊まで徒歩で約30分。片町はさらに遠く、バスで行くのが一般的だ。明治時代に鉄道が敷設されたころ、駅は迷惑施設とみなされ郊外へ追いやられた。そのため都心と中心駅が離れている都市は多い。金沢もその一つだろうと勝手に解釈している。

 今も、香林坊と片町が中心に変わりないのだが、それに加えて金沢駅前が新たな経済の集積地として名乗りを上げているように感じた。JR金沢駅東口にある「もてなしドーム」。1998年に着工し2005年3月に完成した。道行く人が雨や雪に濡れないようにと傘を差し掛ける金沢人の「もてなしの心」を象徴しているという。真新しいビル街が北陸本線に沿って続いている。「2015年春の北陸新幹線開業を控え、建築ラッシュです」と観光案内の女性が教えてくれた。

金沢駅 加賀豊年太鼓
写真①=金沢駅東口の「もてなしドーム」は2005年3月完成
写真②=沖町保存会による加賀豊年太鼓の響きがウオーカーを迎えてくれた

 ウオーキング大会の主会場は駅地下1階のもてなし広場。駅の中がスタートとゴール会場になることは珍しいが、遠来の参加者にはありがたい。私のように駅近くに宿をとったウオーカーが集まってくる。地下街には金沢市の沖町保存会が演じる加賀豊年太鼓が響きわたっていた。

 出発式では石川県ウオーキング協会の北実会長があいさつ。金沢に暮らした作家の五木寛之氏がいつも下駄履きで歩いていたことを紹介し「戦災にも遭わず歴史が続いているところ。歩いて魅力を感じてください」とあいさつした。つづいて山野之義・金沢市長が一週間後の金沢百万石祭りについて「こちらもぜひ来てください」と述べた。

石川ウオーキング会長 金沢市長 金沢緑色バス
写真①=「金沢の歴史を歩いて感じてください」と北実・石川県ウオーキング協会会長
写真②=山野之義・金沢市長は百万石祭りについてもPRした
写真③=金沢を走る観光用の循環バス。緑は秋声号、赤は鏡花号、青は犀星号

 金沢には浅野川と犀川の二つの川がある。一日目は女川と呼ばれる浅野川を歩く。金沢城公園を回り、遊歩道に沿って立ち並んだ像を見ながら進む。前回来た時は冬だった。どんよりした空と解け残った雪が、北陸の厳しい土地柄を感じさせた。だがこの日は快晴。5月の金沢のなんと明るいことか、と思いながら歩く。浅野川を遡行し、朝霧公園のチェックポイントに着く。

 蓮如上人ゆかりの地を記す石柱の脇を山道に入る。右側に墓地。多くの墓石の表面には「南無阿弥陀佛」の文字がある。私が見慣れている京都の墓地では「◯◯家の墓」とするのが一般的と思っていたので珍しく感じた。同じ真宗大谷派のはずだが、私は葬送儀礼には詳しくないので、今は指摘だけにとどめておきたい。

浅野川 朝霧公園チェックポイント
写真①=女川と呼ばれる浅野川の流れ
写真②=朝霧公園のチェックポイント

 卯辰山公園に登る。1867(慶応3)年、加賀藩主としては最後の14代前田慶寧(よしやす)が、福沢諭吉の「西洋事情」に触発され、大衆のための諸施設(養生所・修学所・芝居小屋など)の整備と天満宮の造営を目的に開発し、1928(大正3)年2月に開園した。市内にある兼六園は大名の庭園であるのに対し、卯辰山公園は、庶民の憩いの場として親しまれている。この日は翌日の高校相撲大会の準備で車が多数止まっていた。

 卯辰山を下ると、ひがし茶屋街。金沢に残る3つの茶屋街の中でも最も規模が大きい。石畳の両側に紅殻格子のお茶屋が並んでおり、江戸時代の雰囲気を残している。卯辰山山麓からひがし茶屋街にかけて位置する卯辰山山麓寺院群には多くの寺社が集まっている。江戸時代に一向一揆対策のために集められたという。織田信長配下の、柴田勝家を総大将にする部隊が、加賀を制圧するまでは、一向宗の門徒による共和政体が続いていた。前田家の統治が安定するまでの緊張関係が分かる。

 ひがし茶屋街 金沢福祉専門学校ボランティア
写真①=ひがし茶屋街
写真②=ゴールで距離認定証を渡していた金沢福祉専門学校の学生ボランティア

 ゴールには石川県ウオーキング協会の役員のほか、金沢福祉専門学校のボランティア6人が出迎えにあたり、歩行距離の認定証などを手渡してくれた。
  1. 2012/06/02(土) 19:27:01|
  2. ウオーキング
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