京都駅前つれづれ通信

ウオーキングを中心に、日々気付いたことを紹介します。ご意見をお聞かせください。

讃岐うどんつるつるツーデーウオーク第1日(その2・沙弥島の石中死人)

2012年4月7日(土)35キロ 晴れのち曇り一時小雨

コース JR坂出駅前市民広場~鎌田池公園~西光寺~円通寺~青ノ山~丸亀城~宇多津臨海公園~沙弥島~瀬戸大橋記念館~JR坂出駅前市民広場

   流人人麻呂、慟哭の調べ

 梅原猛氏の著作「水底の歌」が出たのは1973(昭和48)年だった。「人麻呂は流罪、刑死した」との宣伝文が強烈で、すぐに買って読んだ記憶がある。万葉集の代表的な歌人で「歌聖」とも称される柿本人麻呂は第41代持統天皇のころまでは宮廷歌人として重用されたが、藤原不比等らとの政争に敗れ、罪人として各地を流浪し、最後は石見国(島根県)の海岸で処刑され水死するという中身だった。

 日本書紀では人麻呂の最期を庶民と同じ「死」と表記し、身分の高い人に用いる「薨」「卒」を使っていない。それゆえ人麻呂は下級官吏で、旅の歌が多いのも地方への赴任の故、というのが、江戸時代の国学者・賀茂真淵以来の定説だった。だが、死後200年以上後の平安時代初頭に編さんされた古今和歌集の序文には人麻呂を「おほきみつのくらい(正三位)」と記している。

 真淵は単に誤りとしか見なかった。だが梅原説に立てば疑問は氷解する。人麻呂は高位の官人だったが罪に問われたので「死」としか記されなかったのだ。地方の歌が多いのは配流されたためだったと示唆している。

 沙弥島の死人を見て詠んだ歌もその一つだが、流人としての自らの運命を死人に重ねたとしたら、慟哭の響きはさらに悲痛の度を増す。

人麻呂歌碑 人麻呂碑
   人麻呂の歌を伝える石碑=写真①
   「柿本人麻呂」の文字は歌人・川田順が書いた=写真②

 讃岐の狭岑の島(沙弥島)にして、石の中の死人を見て、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首 并せて短歌 巻②220~222
                                                   
玉藻よし 讃岐の国は 国からか 見れども飽かぬ 神からか ここだ貴き 天地 日月を共に 足り行かむ 神の御面と 継ぎ来る 中の湊ゆ 舟浮けて 我が漕ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに 沖見れば とゐ波立ち 辺見れば 白波さわく いさなとり 海を恐み 行く舟の 梶引き折りて をちこちの 島は多けど 名ぐはし 狭岑の島の 荒磯面に 廬りて見れば 波の音 しげき浜辺を しきたへの 枕になして 荒床に ころ臥す君が 家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを 玉鉾の 道だに知らず おほほしく 待ちか恋ふらむ 愛しき妻らは

妻もあらば 摘みて食げまし 沙弥の山 野の上のうはぎ 過ぎにけらしや
               
沖つ波 来寄する荒磯を しきたへの 枕とまきて 寝せる君かも

 「水底の歌」によると、古代には身分の高い人を孤島に流し、餓死するのを待ったと指摘している。流罪といいながらも実質的には死罪だったという。万葉集にはこんな歌もある。


麻続王、伊勢の国の伊良虞(いらご)の島に流さゆる時に、人の哀傷(かな)しびて作る歌

打ち麻(そ)を麻続(をみ)のおほきみ海人なれや伊良虞の島の玉藻刈ります

麻続王、これを聞きて感傷(かなし)びて和(こた)ふる歌

うつせみの命を惜しみ波に濡れ伊良虞の島の玉藻苅り食(は)む(万1―24)
(命が惜しいので、私は波に濡れながら、伊良虞の島の海藻を刈り取って食べている)


 それゆえ沙弥島はぜひ訪ねてみたい場所だった。読後40年を経てウオーキングで訪ねることができたのは幸いだった。だが万葉集にある絶海の孤島のイメージは早くも破られた。昭和40年代の埋め立てで陸続きになっており民家も散在している。島のすぐ東を、本州と四国を結ぶ瀬戸大橋が通っていた。
 
沙弥島全景 中河与一
   沙弥島の全景。約40年前の高度成長期に埋め立てで陸続きになった=写真①
   坂出市出身の作家・中河与一を記念する愛恋無限文学碑=写真②

 それでも南北1キロ、東西200メートルのかつての島部分に入ると風景が変わる。急斜面に土がむき出しになっており、浜辺の墓地のすぐ横まで波が洗っているのが何とも荒涼としている。貴人を置き去りにして餓死を待つをいう梅原説にはふさわしい光景だ。ここには古墳も多い。流罪になった人のものだろうか。

 島の浜辺には歌人・川田順の書による「柿本人麿」の碑や、石中死人の歌の碑、愛憐無限碑がある。地元坂出市出身で代表作「天の夕顔」で有名な作家・中河与一氏の小説「愛恋無限」は万葉集の柿本人麻呂の「石の中に死れる人を視てつくる歌」に通うものがあり、これを記念して昭和52年に建立された。

 人里近いはずなのに、島の中は異空間だ。倒木の多い、荒れた山道を踏みしめる。農作物を耕作する平らな地はほとんどない。ここで流人になったらどうやって食いつなごう…。そんな恐怖にかられながら歩いた。島を周回して舗装路に出る。コース沿いに瀬戸大橋記念館が見えてくる。休日の賑わいの中、ようやく現代に戻ることができた。  
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  1. 2012/04/19(木) 11:11:33|
  2. 文学
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讃岐うどんつるつるツーデーウオーク第1日(その1・舟形茶室と丸亀城)

2012年4月7日(土)35キロ 晴れのち曇り一時小雨

コース JR坂出駅前市民広場~鎌田池公園~西光寺~円通寺~青ノ山~丸亀城~宇多津臨海公園~沙弥島~瀬戸大橋記念館~JR坂出駅前市民広場

   城彩る桜花、疲弊した商店街

  晴れてはいるが肌寒い朝だ。それでも坂出駅前の広場に駅や街中からウオーカーが集まってくると、気合が入ってくる。香川県のウオーキング協会長や坂出市長のあいさつに続いて、大阪から来た9歳の女の子が「歩くぞ」の檄。35キロコースとあって健脚自慢の人がそろっているようだ。晴天が多く雨が少ない瀬戸内海沿いではため池が多い。それに沿って満開近い桜並木が続く。穏やかな農村風景の中を、坂出から宇多津へと道をとる。

1日目出発式 舟形茶室
   JR坂出駅前広場での35キロ出発式=写真①
   西光寺の舟形茶室。内部は見られなかった=写真②

 西光寺の茶室は舟形だという。全国でも姫路藩と熊本藩とともに三つしかないという。内部は公開されていなかったが、屋根を二重にしたあたりが屋形船を思わせる作りではあった。近くの宇多津の市街地には「善根宿」の看板を掲げた宿屋があった。お遍路さんの宿という意味だろう。

 円通寺は細川頼之ゆかりの寺。頼之は室町時代初期、2代将軍足利義詮の死去を受けて3代将軍となった幼少の足利義満を管領として支えた室町幕府の功労者だ。四国四カ国の守護を兼ねたというが、吉野を拠点に侮りがたい勢力を有する南朝や、西国に根を張る足利尊氏の庶子直冬のほか、四国内部でも伊予(愛媛県)では河野氏との抗争もあった。さらに幕府内にも対立勢力があり、一旦は失脚して京都から四国へ帰還を余儀なくされたほどだが、許されて復活する。

 室町時代後期の三好三人衆もそうだが、四国を拠点にした一大勢力が京で権力闘争を繰り広げる例が多いように思う。中国地方と違って、水軍がないと攻めにくいからだろうか。

円通寺 丸亀城
   細川頼之ゆかりの円通寺=写真①
   標高66メートルの山の上に建つ丸亀城。桜が咲き誇っていた=写真②

 青ノ山の中腹を巻いて丸亀に入る。丸亀城は標高66メートルの亀山の上に築いた平山城。江戸時代初期の寛永20(1643)年から、山崎氏によって築城が開始された。3段の石垣が巡らされ、天守閣は小さいが現存する木造天守12城の一つ。石垣にも当時の技術の粋が凝らされ、各地の大名が築城の工夫を競った江戸時代初期の雰囲気を今に伝える。

金比羅灯篭 入り浜式製塩
   今は一基だけになった金比羅講灯篭=写真①
   かつて行われていた入り浜式製塩を今に伝える=写真②

 城から海に向いて、アーケードのある商店街を抜ける。だが土曜日の昼前というのに約半数の店はシャッターを下ろしたままだ。コース沿いにうちわの館ミュージアムがある。うちわは丸亀市の名産だが近年はエアコンの普及で需要は限られている。ところが昨年夏は原発事故に起因する節電の広がりで、うちわ特需があったと、地元四国新聞が伝えていたらしい。

 海に出たところに立つのが金比羅講燈籠。丸亀は金比羅参詣者の上陸地として栄えてきた。青銅製で高さ5.28メートル。蓮の花をかたどった八角形で天保9(1838)年の製作。天保時代には対岸を含め4基あったが、太平洋戦争時の金属回収で、他の3基は姿を消したという。

 海浜公園には、かつて盛んだった入り浜式製塩の技術を伝える建物がある。土曜日の午後とあって行楽の家族連れが多い。目前に瀬戸大橋が迫ってくる。橋の下の埋立地には広大な川崎重工工場。その前を通って沙弥島に向かう。(沙弥島はその②「人麻呂と石中の死人」に掲載)

丸亀商店街 坂出商店街
   丸亀市の旧来の商店街は、土曜の昼前と言うのに半数がシャッターを下ろしていた=写真①
   坂出の商店街のこの店は、20年近く今の状態のままのようだ=写真②

 沙弥島から番の州公園を通って坂出市の市街地に戻る。旧来の商店街は目分量で6割から7割の店がシャッターを下ろしていた。出会った自転車の男性は「地方はどこも疲弊してます」と諦めた表情で話してくれた。その中に市長の後援会事務所もあった。「街に活力」の看板に、何とも皮肉な思いを禁じえなかった。もちろん、努力はされているのだろうが…。シャッターを下ろしていた婦人服店には平成5(1993)年に移転しますとの掲示があった。20年近くもこの状態が続いているのだろうか。駅前にイオンの店舗ができたのが影響したのか。瀬戸内海大橋が開通して、岡山方面には行きやすくなった。ストロー効果で買い物客も本州に吸い上げられているのだろうか。

 あまりにも多くの思いに捕らわれながら歩いたためすっかり時間がかかった。ゴールに着いたのは規定の午後4時のわずか5分前。ふるまいの讃岐うどんを食べていると、周囲では会場の後片付けが始まっていた。


 
  1. 2012/04/10(火) 10:47:51|
  2. ウオーキング
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讃岐うどんつるつるツーデーウオーク第2日

2012年4月8日(日)10キロ 快晴
場所 香川県坂出市
コース JR坂出駅前市民広場~鎌田池公園~川津小学校~天皇寺高照院~JR坂出駅前市民広場

初耳だった崇徳上皇暗殺説

 ウオーク2日目は崇徳上皇のゆかりの地を歩くコース。上皇は保元元(1156)年の保元の乱で弟の後白河天皇方に敗れて讃岐に流され9年後に崩御した。たたりの深さから日本一の大魔王とされている。

 35キロコースなら葬った白峰陵と西行法師ゆかりの道を通る。謡曲「白峰」に描かれている西行法師が髪とひげ、爪を伸ばし放題にした異形に化した上皇と再会する場だ。10キロ、20キロは上皇を祀った白峰宮を境内に有する天皇寺高照院を通る。ここは四国霊場第七十九番札所。門前に赤い鳥居があるのも神宮寺であれば当然か。隣接して「八十場(やそば)の霊水」と呼ばれる泉もある。上皇崩御の際、都から葬儀の指示があるまでの20日間、遺体を浸して腐乱を防いだとされるが、上皇には何かとおどろおどろしい伝承が多い。泉のほとりでトコロテンを売る店が繁盛している。小皿が250円だった。

 上皇の死因は、自らしたためたお経を京都の政権側から突き返されたことによる憤死と思っていた。だが、地元坂出市では、刺客による暗殺説が有名らしい。 讃州府誌にも「長寛ニ年八月二条帝陰に讃の士人に命じ弑せしめたり」と記されており、惨劇の地には「柳田」という石碑が立てられている。

 伝承によると、村人から刺客の知らせを聞いて逃げた上皇は、綾川沿いの柳の根元にあるほこらに隠れたが、、川に上皇の衣が映って刺客に見つかり殺されたという。

 実際にはどうだったのだろう。もし暗殺されたのなら、臣下の手にかかった天皇は第32代崇峻天皇に次ぎ二人目になる(西暦592年)。京都の後白河、二条父子にとっては崇徳上皇は敵とは言え、皇室の権威失墜は避けたい。そこで刺客を放ったことは秘したのであろう。だが私は地元坂出市に800年以上も、暗殺説が伝えられてきたことを重く見たい。

 ここで気になるのが「崇徳」という諡だ。「崇」は「祟(たたり)」という字と酷似しており、草書体では同じ字としか見えないと、作家の井沢元彦氏が指摘している(逆説の日本史)。崇峻、崇徳、早良親王(崇道天皇)と並べてみると、「崇」の諡号を持つ人物はいずれも、祟り神として位置づけられているように思える。(第10代崇神天皇についてはよく分からないが)

坂出市長あいさつ 飯野山前を歩く
   あいさつする綾宏・坂出市長=写真① 
   讃岐富士・飯野山を背景にため池にそって歩く=写真②

天皇寺 天皇寺チェックポイント
  天皇寺は白峰宮を抱える神宮寺なので鳥居がある=写真①
  寺内のチェックポイント。左端の女性が弁当の引き換えをしてくれた=写真②

 ウオーキングに話を戻す。快晴に恵まれたこの日、出発式のコース説明の際に例の崇徳上皇暗殺説を紹介してくれたのが主催者の香川県ウオーキング協会副会長だった。またあいさつに立った綾宏・坂出市長はゴール後にふるまわれる讃岐うどんについて「おいしいうどんなら私が踏んだものです」とご当地自慢。配流の上皇を世話したのが綾氏と言う一族だったと言うが、市長がその末裔かどうかは聞きそびれた。

 午前8時40分頃という10キロとしては早めの出発だった。讃岐富士として知られる飯野山(標高422メートル)を望みながら歩く。空海(弘法大師)が開いたという言い伝えがあるとおり、ため池がさかんに目に付く。午前10時半ごろに天皇寺到着。お遍路さんの札所とあって巡礼姿の団体が大師堂にお参りしている姿もあった。予約しておいた弁当を摂って正午前にゴールすることができた。

 本当はこの日も35キロ歩く予定だったのだが、前日のウオークですっかり疲れてしまい10キロに変更。白峰陵と西行法師ゆかりの道には心が残ってしまった。また来なければいけなくなった。 
  1. 2012/04/08(日) 22:58:45|
  2. ウオーキング
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原発担当相に京都駅前で帰れコール

   “俘囚”のがれきを拒んだ一部の都人

平安時代中期の東北地方を舞台にした1993(平成5)年のNHK大河ドラマ「炎(ほむら)立つ」は、「前九年の役」から「後三年の役」にいたる流れを征服される側の蝦夷の視点から描いていたのが印象的だった。その中で盛んに「俘囚(ふしゅう)」というセリフが使われていた。征服され服属した蝦夷を言うそうだ。もちろん差別語である。

 話は現代に飛ぶ。東日本大震災のがれきの広域処理が問題になっている。新聞などによると、宮城県、岩手県とも年間処理量の10倍以上のがれきが未だに堆積し放置され、復興の足かせになっていると言う。そこで都道府県と市町村の協力を求め、全国の処理場で焼却を進めようというのが、今回の国の方針だ。地元民の理解を得ようと原発事故担当の細野豪志環境相が京都入りしたのが3月31日。事件はそこで起きた。

 4月1日付京都新聞によると、31日午後5時ごろ、環境相と山田啓二京都府知事が、JR京都駅前で街頭演説を行った。だが特設ステージを300人以上が取り囲み「帰れ」「放射能を拡散するな」などと大声で抗議し、怒号が飛び交った。駆けつけた野中広務・自民党元幹事長も「落ち着いて話を聞き、日本人らしく助け合おう」と呼びかけたが収まらず、細野氏は「聞く耳を持ってもらえないので、説明できない」と演説を打ち切り、予定していたビラ配布も中止。反対派にもみくちゃにされながら、会場を車で後にしたと言う。

石巻1 石巻2
   宮城県石巻市では道路脇にがれきが積まれていた=写真①
   津波で流された家の跡。がれきは重機で取り除かれていた=写真②(ともに2011年7月)

 何とも馬鹿なことをしたものだ。原発事故の現場となった福島県の瓦礫は県内処理される。宮城、岩手の瓦礫の放射能は自然界に存在する程度でしかないと、国は何度も説明している。それが信じられないと言うのなら、大臣をはじめ国の責任者にしっかり問いただすことこそ、責任ある対応ではないのか。相手の話を聞こうともせずに、根拠もなく「放射能を拡散するな」と叫ぶのはフーリガンとしか言いようがない。広域処理に反対意見を持つ人でも、心ある人は大臣の生の言葉を聴きたかったのではないか。このような行為には眉をひそめていることだろう。

 平安時代に、朝廷と摂関家による京都の政権が、今の岩手県や宮城県で住民を殺し、征服し、搾取した歴史があった。がれきの受け入れによって、千年前の因縁を少しでも消すことができれば、と願っている。今回の大臣への問答無用の振る舞いが京都の地で起きたことが残念でならない。
  1. 2012/04/02(月) 06:43:33|
  2. 時事
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