京都駅前つれづれ通信

ウオーキングを中心に、日々気付いたことを紹介します。ご意見をお聞かせください。

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UCCカフェプラザ(現・珈琲館)東本願寺前店(私の好きな京のカフェ②)

     うらやましがられる常連客

 もう30年以上前になる。京都駅周辺での待ち合わせ場所を決める時、滋賀県野洲町(現・野洲市)の人から指定されたのが店に入った始まりだった。最近では2010年のある日、旧知の近江今津(滋賀県高島市)の人と東本願寺の門前でばったり出会って、UCCの常連だと言うと「うらやましい」と言われたことがある。地元の人間より、滋賀県や京都市近郊の、やや遠方の人にとって有名な場所かもしれない。

 30数年前は短い廊下を入ると奥にテーブルが並んでいた。焼きそばやスパゲティーミートソースが鉄板に乗って運ばれてくるのがおいしそうだった。当時はずっと上(かみ)のほうに住んでいたが、京都駅近くに行った時は注文していた記憶がある。いつしか店が取り壊され、新しく建ったビル1階に今の店舗ができた。鉄板料理はなくなりメニューも変わってしまったが…。平成になって下(しも)に移り、常連客として親しんでいる。

 京都駅から烏丸通を北に約250メートル歩いた烏丸七条交差点の東南にある。西北には東本願寺の伽藍が見える。「このあたりの地名は何というか」とつい最近横浜の旧友に聞かれた。京都には「大原三千院」「紫野大徳寺」「太秦広隆寺」というように寺号の頭に地名がつくケースが多いのだが、中心部では一帯を表す決まった呼び名はない。烏丸七条かいわいだと、多くの人にとっては「京都駅前」になるのだろう。交差点を北に渡ったところには「王将京都駅前店」がある。「東本願寺前」と呼ぶ人はずっと少数だ。だがこの店は「東本願寺前店」。斜め向かいには改修中の阿弥陀堂が、仮堂に覆われているのが見えるし、午前8時を過ぎると、朝のお勤めを終えたと見られる僧衣の男性が連れ立って入ってくる。明治時代にできた国鉄(現・JR)に比べ、東本願寺は徳川家康の庇護で建てられたからずっと古い。

UCCカフェプラザ東本願寺前店 東本願寺阿弥陀堂
   UCCカフェプラザ東本願寺前店=写真①
   改修中の東本願寺阿弥陀堂=写真②

 「えり(魞)構造」という言葉を聞いたことがある。えり漁は琵琶湖独特の漁法で、矢印状に湖底に棒を立てる。矢印の中に迷い込んだ魚は、習性上出られない。そこを一網打尽にする。えり構造とは、1997年の京都駅ビル開業以来の客の立ち回り先の変化をいう。客は買い物も飲食もジェイアール京都伊勢丹をはじめとするビル内の施設で済ますため、ビルの外への波及効果が限られることを言う。その証拠に、UCCカフェプラザ東本願寺前店も日曜日午後には混み合うが、それでも、えりの内側にある、例えばジェイアール京都伊勢丹3階のカントリーハウス英國屋に比べると、席の確保ははるかに容易だ。

 開店は朝7時。春や秋のシーズンは観光客風の姿も目立つ。今もきっと観光雑誌や女性誌に採り上げられているのだろう。常連客としては肩身が狭いこともあるが、それでも店に活気があるのは喜ばしい。

 七条烏丸には西南側に「ヤママサ」という喫茶店もあったのだが、残念なことに2000年ごろに廃業した。UCCカフェプラザ東本願寺前店が今後も七条烏丸のシンボルとして、憩いを提供してくれることを切に願う。

UCCカフェプラザは2012年6月から7月にかけて約一か月間工事で閉店した後、珈琲館として再スタートした。従来とは逆に禁煙席がメインとなり、喫煙席は北側の一角をガラスで仕切っている。非喫煙者としては大変ありがたく、これまで以上に通うようになった。
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  1. 2012/01/29(日) 22:37:37|
  2. カフェ・レストラン
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書評「十字軍物語3」 塩野七生著(新潮社)

   交渉で勝利した皇帝の孤独

 平和について語る時、すっかり有名になったのが司馬遼太郎の次の言葉だ。

 「平和とは、まことにはかない概念である。単に戦争の対語にすぎず、"戦争のない状態" を指すだけのことで、天国や浄土のように完全な次元ではない。あくまでも人間に属する。平和を維持するためには、人脂 (ひとあぶら) のべとつくような手練手管 (てれんてくだ) が要る。平和維持にはしばしば犯罪まがいのおどしや、商人が利を逐(お)うような懸命の奔走も要る。さらには複雑な方法や計算を積みかさねるために、奸悪の評判までとりかねないものである。例として、徳川家康の豊臣家処分をおもえばいい。家康は三百年の太平をひらいた。が、家康は信長や秀吉にくらべて人気が薄い。平和とは、そういうものである」(風塵抄・58平和=1991年3月4日)

 司馬はさらに「念仏では平和は守れない」と言う。この言葉は意味深長だ。表向きは「祈願するだけでは平和は守れない」の意味だろう。だが念仏を唱える浄土真宗(一向宗)の門徒が、戦国大名と覇を競った歴史を思えば、熱狂的な信仰が平和への大きな妨げになることを指摘したかったのではないだろうか。それはキリスト教もイスラム教も同じで洋の東西を問わない。塩野七生の「十字軍物語」を読んで気づくのはその点だ。

 西欧の有力諸侯に率いられた第1次十字軍は、イスラム側の不統一に助けられエルサレム王国を樹立する(1099年=第1巻)。イスラム側がサラディンによって統一されたのに対し、キリスト教側は慢性的な兵力不足を克服できず、エルサレムを奪回される(1187年=第2巻)。十字軍全史の最終巻となる本巻は、エルサレム再復を目指す第3次から第8次までと、港町アッコン陥落によりキリスト教側が最後の拠点を失うまでを描く。筆者にとって最も感銘を受けたのは、交渉によってエルサレムの支配権を回復した第6次に関する記述だ。

エルサレム旧市街
このエルサレム旧市街の写真はトリップアドバイザーから無料提供されています

 筆者が十字軍を教科書で習ったのはずいぶん昔になったが、覚えているのは第4次十字軍(1199~1204年)がビザンチン帝国の首都コンスタンチノープルを攻めたのを「同じキリスト教徒を攻めたのは堕落」と評していた点だ。第6次十字軍(1228~9年)が交渉でエルサレムの支配権を回復したことももちろん評価せず、わずか数行で通り過ぎていったのを覚えている。多面的であるべき歴史学習なのに、日本の教育現場がカトリック教会の見方を踏襲していることに気づかせてくれたのも、この本のおかげだ。

 十字軍の成否はエルサレムの回復ができたかどうかで決まると言うのが従来の学説だ。ところが神聖ローマ皇帝フリードリッヒ率いる第6次十字軍は、イスラム教側のアユーブ朝スルタン、アル・アーメドと交渉し、エルサレムの中のイスラム教地帯を渡すことを条件に主権を回復した。だがローマ教皇は反対し、エルサレム司教も任地に行かずアッコンにとどまったままだった。

 なぜ交渉による成果は受け入れられなかったか。それは大部分の仲間にとって、勝利の感覚が得られなかったからのように思う。

 話は急に身近になる。筆者は約20年前、当時勤めていた会社の労働組合側代表として労使交渉に携わった経験がある。春闘にしても一時金闘争にしても団体交渉を重ねるうちに建て前の要求額は意味を持たなくなり、最後は1000円札1枚をめぐるやり取りになる。その1枚を勝ち取って妥結しても、組合員から称えられることはない。少数の交渉当事者と、同じ苦労を知る交渉経験者だけでささやかな勝利の喜びに浸るのが関の山だ。

 なぜ勝利の実感を得られないか。それは組合員自身が参加した実感を持っていなかったからだと今にして思う。労使話し合い路線の時代ではあったが、ストライキに突入でもして、組合側の団結力の強弱、経営側の壁の厚さ、そういったものを一人ひとりが実感すれば、微妙な勝利でも全員で分かち合えたかもしれない。だが実際は、交渉のたびごとに、当事者は孤独な判断を強いられていた。

 皇帝フリードリッヒは、決して馴れ合いの交渉をしたのではない。多くの船を建造し、その武力を背景に妥協を強いた。巨額の軍事費を使ったわけだから、直接の戦闘はなくても戦争をしたと同様だ。その結果、キリスト教徒が安心してエルサレムの聖地巡礼をできるわけだから、皇帝にすれば勝利の実感はあったと思う。

 だがローマ法王と教会は勝利を認めなかった。塩野は「イスラム教徒は倒すべき相手であり、そういう者と交渉すること自体が悪だから」と解説する。その通りだが、イスラム教地帯は相手に渡すなどしており完全勝利の実感が得にくかったのも理由の一つだろう。たとえ7割の勝利を得ても、周囲は残り3割の譲歩を問題にするものだ。皇帝の武将、兵士たちも戦闘していないうちに、目に見えないところで決着がついてしまった。手柄を立てる機会を奪われたことに割り切れぬ思いを抱いたに違いない。塩野の記述からは、フリードリッヒは「教会や世間はしょせんそんなもの」と達観していたようにも見えるが、孤独感は禁じえなかったことだろう。

 塩野は、合理主義に基づいて異教徒が共存、交流しともに繁栄する社会を理想として考える。そのためには司馬の言う手練手管はもちろん必要になるだろう。帯書きにもあるが、平和とは何か、あらためて考えさせられる一冊だった。中世の宗教戦争に近現代の労使交渉を重ねることの是非については、批判を待ちたい。
  1. 2012/01/28(土) 22:10:25|
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カフェ・ベローチェ京都駅前店(私の好きな京のカフェ①)

       夜明けの一杯、至福のひととき

 シャノアールという会社が運営するカフェ・ベローチェは、関西でも大阪や京都に多くの店舗を出している。多くはビジネス街にあり、主な客層はサラリーマンだが、ここ京都駅前店独自の特徴は、観光客が多いことだ。

  冬の午前6時台はまだ暗い。角地のビルに点る橙色の光が、暖かく闇を照らし出してくれる。開店はチェーン店の標準より30分早い午前6時半。扉が開くやいなや表で待っていたバックパッカー風の観光客が二つのレジに列をつくる。

 京都駅前広場の西端、京都中央郵便局の北側に位置する。敷地は南隣のコンビニを取り囲むカギ型だ。西南側は奥深い。テーブルの位置取り次第で団体客の受け入れも可能だ。一方の北側には、6時台から7時台にかけて入り口の方向から日が差し込んでくる。夜が明けていく感覚を味わいながらのコーヒーは、至福のひとときだ。

 7時を過ぎると、客層は徐々に観光客から常連のサラリーマンに移っていく。好みの座席が決まっているので、同じような顔ぶれが、一つのコーナーに片寄る。顔見知りではあっても言葉を交わすことはないのだが、それでも仕事を前に新聞やスマートフォンで気力を高めていく姿は共通で、互いにエネルギーを交換している気分になれる。

カフェベローチェ京都駅前店 
   冬の朝、温かな光が迎えてくれるベローチェ京都駅前店

 近隣への出張や日祝日の行楽の前にも立ち寄る。京都駅中央改札へは徒歩2分。大阪・神戸方面や滋賀方面、綾部・福知山方面のいずれであれ、店内でその日の予定や実行目標を確認する。発車の時間が近づけば、スタッフの「ありがとうございました」の声を背に受けて、JRへと向かう。

 昼間もそれなりに客の波は途切れないが、夕方に再度潮が満ちてくる。注文して商品を手にした客が席を確保できないということがないよう、レジスタッフのほかに、入り口とフロアにスタッフが配置され、新規の客の人数と空席の数を照合しながら誘導していく。京都の他の店ではあまり見られない光景だ。

  1. 2012/01/26(木) 18:45:24|
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大原御幸のみちウオーク(源氏と平家・その3)下見記録

2012年1月7日(土)15キロ 曇り時々雪一時晴れ

コース 叡山電車・京都精華大前駅~京都精華大~市原~静原神社~江文峠~建礼門院大原西陵・寂光院~三千院~京都バス・大原バスターミナル

   法皇の来訪、女院には酷だったか

 叡山電車出町柳駅では晴れていたのだ。「下見の時はいつも天気がいいから、本番もこうあってほしいね」と、乗り合わせた電車で話していたのもつかの間、京都北山の山麓に位置する京都精華大前駅に着いて間もなく時雨が来た。その中を、さらに山懐の峠道へ向けて出発した。

 今年の京都府ウオーキング協会の春のテーマウオークは、NHK大河ドラマ「平清盛」にちなみ「源氏と平家」。初回は六波羅など平家栄華の地。2回目は祇王、小督といった平家物語を彩る女性ゆかりの右京・西京。そして最終回は4月15日に「大原御幸(おおはらごこう)のみち」と称して洛北・大原を目指す。この日はその事前踏査だ。

 平家は清盛の死後の寿永4年(1185年)に源義経率いる源氏に追われ、壇ノ浦(山口県)の海戦に敗れて滅亡した。清盛の娘で第79代高倉天皇の中宮となり第80代安徳天皇を生んだ建礼門院徳子も入水したが果たせず、京都・大原の寂光院でひっそりと余生を過ごした。そこへ女院のしゅうとに当たる後白河法皇(第76代天皇)が訪ねていき、昔を語り合う。翌、文治2年(1186年)4月のこととされるが、平家物語灌頂巻(かんじょうのまき)や謡曲「大原御幸」に採り上げられ、源平合戦のエンディングを飾る名場面となっている。

鞍馬街道 静原神社
   鞍馬口から岩倉を経て鞍馬川沿いに鞍馬寺門前に至る鞍馬街道=写真①
   古い社殿と数百年は経たとみられる杉が迎えてくれた静原神社=写真② 

 法皇は夏草を踏み分けて行ったであろうが、ウオークでは車が行きかう鞍馬街道をなるべく避け、住宅街の中を通りながら、市原から静原を目指す。みぞれから雪に代わり、時折激しくなる中を、市原から鞍馬街道をはずれ、山あいの里・静原へと向かう。

 静原の中心にある静原神社は、伝承では第13代成務天皇12年(142年)3月に創建された。イザナギノミコト、ニニギノミコトの2神を祀っている。隣接して児童公園があり、本番では昼食ポイントに予定されている。

静原石柱 江文峠
   静原の民家で見た石灯篭の上のしめ縄。意味が良く分からなかった=写真①
   江文峠は金比羅山の登り口でもある。案内の立派な石碑が建っていた=写真②

 江文峠までは舗装路を行くが、途中から杉木立の中を柔らかい土を踏みしめて登る気持ちのいい道だ。ここは東海道自然歩道や京都トレイルの一部で、峠からは北に金比羅山、南に箕ノ裏ヶ岳への登山口となっている。東へ下れば大原。コースは寂光院から三千院へと向かう。

寂光院は天台宗の尼寺で山号は清香山、寺号は玉泉寺。推古天皇2年(594年)に聖徳太子が父で第31代用明天皇の菩提と弔うために建造したと伝えられる。建礼門院は平家一門と子の安徳天皇を弔うために出家、建保元年(1213年)に亡くなるまで28年間をこの寺で過ごしている。本堂は歴史的に貴重なものだったが平成12年(2000年)に不審火で全焼。現在の本堂は平成17年(2005年)に焼損前のものを忠実に復元したものだ。

南天 建礼門院大原西陵
   大原の里ではところどころに色鮮やかな南天があった=写真①
   建礼門院の墓所、大原西陵=写真②

 寂光院の門前手前に石畳の参道が一直線に伸び、それを上がった高台が、建礼門院の墓所だ。出家していたこともあって鳥居の中に五輪塔がある珍しい仏教式御陵とされている。

 建礼門院のことを調べようとネット検索していると「謡蹟めぐり・謡曲初心者のためのガイド」というブログが見つかった。そこで白洲正子の「謡曲・平家物語紀行」からの引用があった。建礼門院がどんな女性であったのかについても言及しており、興味深いので一部孫引きする。 

 「それにしても何故母親の女院(建礼門院=筆者注)ではなく、祖母の二位の尼(平時子・清盛の妻)が、天皇を抱いて入水したのであろう。同じ場所で身を投げたのに、二人は死に、一人が助かったのは、やはり女院には助かりたいという気持がどこかにあったのではないか。二位の尼はそれを見ぬいていた。もしここで天皇が万が一にも救われたら、死ぬより辛い目を見られるに違いない。神器を敵の手に渡すことも、今までの苦労が水の泡となる。もしかしたら、そういうことはすべて知盛(清盛の三男・平家の実質的な総大将)と相談ずくの上で決行されたことかも知れない。それだけ女院は女らしいともいえるが、女らしく自殺した小宰相の局のことを思うと、そういって済ませるものではないか。

 (後白河法皇を見送ってから)女院は放心したように、柴の戸にたたずみ、春のたそがれの寂寞とした気配のうちに、「大原御幸」の能は静かに終る。平家物語ではこの後に「女院御往生の事」がつづき、御幸の後で、女院は昔を思い出して、涙にくれる日々を送ったという。

 思えば法皇は罪なことをされたものである。
    このごろはいつならひてかわが心 大宮人の恋しかるらむ
    いざさらば涙くらべむほとゝぎす われもうき世に音をのみぞなく
これらの歌からも推察されるように、六道の有様を体験したといっても、女院は仏教の悟りなどからは程遠い人で、いつまでも一本立ちが出来ないような、哀れな女性であった」

 「大原御幸」は、源平合戦の末尾にドラマチックな場面を作りたいという文学的創作とされているが、もう一つの想像の所産が「壇ノ浦夜合戦記」。捕えられた建礼門院と敵の総大将・源義経が男女の仲になるとの内容で、江戸時代の作とされる。好色文学の成立は江戸期まで下るのであろうか。日本文学史の知見を聞いてみたい。

 旅にあたっては関連の文学を読んでおくとさらに興趣が増すというがウオーキングも同じだ。その意味では吉川英治の「新平家物語」がお勧めだが、近作では白河法皇(第71代天皇)と孫の鳥羽上皇(第73代天皇)、待賢門院璋子(たまこ)の三角関係を描いた渡辺淳一の「天上紅蓮」がある。

 1月8日放映の「平清盛」第1回は、伊東四朗演じる権力者・白河法皇の憎々しげな演技が印象的だったが、鳥羽上皇と璋子の子として育った第74代崇徳天皇は、実際には白河法皇の胤とされる。このため白河法皇の死後に院政を敷いた鳥羽上皇から「叔父子」と呼ばれ疎んじられた。その恨みが1156年の保元の乱の原因となる。渡辺氏の小説は愛欲をテーマにしたものだが、乱の原因を作った法皇の行為は、為政者としてとんでもないことと指弾しないわけにいかない。

 本番は4月15日。桜は満開を過ぎていると思われるが、葉桜の美しい季節だ。興味のある人はぜひ一緒に歩いてほしい。 
  1. 2012/01/07(土) 21:44:28|
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