京都駅前つれづれ通信

ウオーキングを中心に、日々気付いたことを紹介します。ご意見をお聞かせください。

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第9回大和路まほろばツーデーマーチ第2日 ②大化改新編

2011年11月27日(日)20キロ 晴れ時々曇り

コース 橿原神宮~近鉄飛鳥駅~高取町・土佐街道~キトラ古墳~高松塚古墳~飛鳥歴史公園館~亀石~石舞台古墳~飛鳥寺~甘樫丘~橿原神宮

     入鹿の首は飛んだのか
 
  亀石を東へ行くと聖徳太子生誕地の石柱が右手に見える。ほど近くに橘寺。太子建立七大寺の1つとされ、父である第31代用明天皇の別宮を寺に改めたのが始まりと伝わる。

 石舞台古墳に着く。昔から蘇我馬子の墓と伝えられてきた。途方もない大きさの石を無造作に積み上げたかに見えるが、何とも野蛮な力を感じる。評論家・小林秀雄の表現を借りよう。

 「巨きな花崗の切石を畳んだ古墳の羨道を行くと、これも亦御影造りの長方形の玄室に出る。八畳二間は優にとれるであろうか。石棺はない。天井は、二枚の大磐石である。(中略)どうもよく解らない。何が美しいのだろうか。何も眼を惹くものもない。永続する記念物を創らうとした古代人の心が、何やらしきりに語りかけてゐるのか。彼等の心は、こんな途轍もない花崗岩を、切っては組み上げる事によってしか語れなかった。まさにさういう心だったに相違ない」(「蘇我馬子の墓」1950年)


石舞台古墳 岡寺
   石舞台古墳。蘇我馬子の墓と伝わる=写真①
   岡寺への登り口。境内へは10~15分かかるという=写真②

 小林は天井石の上で弁当を食べながら古代に思いをはせた。もちろん今は登れないし、囲いの中に入って古墳を間近に見るには250円払わないといけない。あまり長くとどまるとウオーキングのリズムが崩れるので入るのは諦めたが、古代人の情念が一面にみなぎっているのを感じた。次回は観光で訪れようと心に決め、先を急いだ。

 岡寺への登り口に鳥居があった。白鳳時代に義淵僧正が開いた。伽藍までは10~15分の登り坂だ。

 伝飛鳥板葺宮跡。馬子の子と孫にあたる蘇我蝦夷・入鹿父子が館を構えた甘樫丘は直線で1キロもない。2つの屋敷が丘の上から宮を見下ろしていたことがはっきり分かり、蘇我氏の権力の強さを肌身で感じさせられた。これは現場を踏まないと分からない感覚だ。第35代皇極女帝が都を置いたとされるが、作家・坂口安吾は上宮聖徳法王帝説の欠字を推理し、すでに蘇我氏が王位についていたと直感する(「飛鳥の幻」1951年)。後世に大化改新と呼ばれるクーデターはここで起こったのか。

伝飛鳥板葺宮 甘樫丘
   伝飛鳥板葺宮跡。645年6月。この地で蘇我入鹿暗殺のクーデターが起こった=写真①
   ガイドさんの背後の森が甘樫丘。丘の上の屋敷はちょうど飛鳥板葺宮を見下ろす位置に当たる=写真②
 
「計画は、645年6月、飛鳥板葺宮に三韓朝貢の儀式がとりおこなわれた日に決行された。(中略)宮にやってきた入鹿を俳優が笑わせ剣を外させた。(中略)そして式が始まると、かねての手筈では、(蘇我倉山田)石川麻呂の読みすすめる三韓上奏文に応じて、佐伯子麻呂・葛城稚犬養網田が飛び出す予定であった。だが、鞍作(入鹿)の威を恐れてたじろいだ。石川麻呂の声も乱れてきた。鞍作がようやく異様な気配を察し始めた。間一発、みずから長槍を手に躍り出た葛城王子(中大兄)の鞍作の頭肩への一撃、つづいて飛び出した子麻呂の鞍作への足への一撃…」(門脇禎二「飛鳥~その古代史と風土」NHKブックス)

 中大兄皇子と中臣鎌足らによる入鹿暗殺が舞台の第1幕とすれば、蝦夷自尽が第2幕。その大団円に向けて双方はどのように演じたか。

 入鹿殺害後、中大兄皇子側の兵力は飛鳥寺に結集。甘樫丘の蘇我蝦夷と対峙した。蝦夷は渡来系氏族で武勇のほまれ高い漢直氏一族を集め舘を固めた。中大兄側から降伏勧告の使者に立ったのは巨勢臣徳太。2年前に入鹿とともに山背大兄王討伐に立った仲間であり、蘇我側にとってはショックだったろう。重臣の高向臣国押が、戦うことの無益を説き、漢直一族は弓を捨てて四散。そこで蝦夷は諦めて舘に火をかけて自尽する。

飛鳥寺 入鹿首塚2
   飛鳥寺。入鹿暗殺後、中大兄皇子側はここに立てこもり、甘樫丘の蘇我蝦夷とにらみ合った=写真①
   飛鳥寺西方80メートルにある蘇我入鹿首塚。後方は甘樫丘=写真②

 大化改新については、蘇我氏など大豪族を抑え、改新の詔に見られるように中央集権を実現したという歴史的評価がある。だが、中央集権については必ずしも徹底されていなかったという意味で「大化の改新はなかった」という研究者もいるようだ。また黒幕はクーデター後に即位した第36代孝徳天皇だった、との論の一方で、孝徳天皇と入鹿はもともと仲がよく、難波に遷都したのは本来は入鹿の構想だったとの説がある。私見だが、663年、朝鮮半島沿岸の白村江の海戦で日本と百済連合軍が唐・新羅に大敗するなど大陸・半島情勢が急を告げていた危機感が、中央集権に向かうバネになったのではないか。

 中大兄が第38代天智天皇として即位するまで、入鹿殺害後23年間かかったのは、血の記録を払拭して清浄な神官たる天皇となるにはそれだけの年月が必要だったと、建築家の武澤秀一氏が指摘している(「法隆寺は燃やされた~ここまでわかった世界遺産」=文芸春秋2009年6月号)。実妹で孝徳天皇の皇后だった間人皇女を奪ったのが当事のタブーに触れたため、というのが一般的な理由とされている中で、新鮮な発想に思えた。

 一方、実行役について槍の名手だったとされる大海人皇子を想定するのが作家の井沢元彦氏。井沢氏によると大海人皇子(天武天皇)は歴代天皇で唯一、生年が記されていないことから、父は第34代舒明天皇ではなく皇極天皇の前夫の子であり、中大兄にとっては異父兄だったと考える。天皇家嫡流の血筋につながることの証明のため、記紀では中大兄の弟となっている。大海人の前半生が記録に現れないのは、出生にまつわる「事実」を隠すためだという。(「日本史の反逆者―私説・壬申の乱」「隠された帝―天智天皇暗殺事件」)

 ウオーキングコースは伝飛鳥板葺宮から飛鳥寺へ。588年(崇峻天皇元年)に蘇我馬子が建立した蘇我氏の氏寺。ご本尊の飛鳥大仏は606年(推古天皇14年)に安置され今に至る。鎌倉時代の1196年(建久7年)の火災による焼失後、江戸時代には仮堂一宇を残すのみであったという。現在の本堂は江戸末期の1825年(文政8年)に大坂の篤志家の援助で再建された。拝観料は350円。ここでも再訪を心に誓う。

 寺の西門から80メートル離れた五輪塔が入鹿の首塚と言われている。

 「入鹿の首といえば、中臣鎌足を祀る談山神社の『多武峰縁起絵巻』で刎ねられた入鹿の首が飛ぶ場面が有名だ。伝説によれば、斬られた理由が分からぬ入鹿は中大兄と鎌足を睨みつけた。その恐ろしさに二人は談山神社のほうまで一目散に逃げたとか。結局、中大兄らの姿を見失った入鹿の首は、もう夕方だからというので、屋敷があった甘樫丘に帰ろうとしたが、首塚のところで力尽き、すとーんと落ちたのだという。」(遠山美都男「蘇我氏四代の冤罪を晴らす」学研新書)

 わずか1キロ四方の中に積み重なった歴史の重さに圧倒される思いの中で歩を進める。ゴールまでは残り3キロ。やがて近鉄橿原神宮駅に着き、電車の音に、ようやく現実に戻ることができた。 
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  1. 2011/11/26(土) 20:35:33|
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第9回大和路まほろばツーデーウオーク第2日 ①高取と高松塚編

2011年11月27日(日)20キロ 晴れ時々曇り

コース 橿原神宮~近鉄飛鳥駅~高取町・土佐街道~キトラ古墳~高松塚古墳~飛鳥歴史公園館~亀石~石舞台古墳~飛鳥寺~甘樫丘~橿原神宮

    亀石が西をにらめば大洪水

 2日目20キロコースの開会式では開催地を代表して橿原市の森下豊市長があいさつに立った。市長は、畝傍山東南のふもとであるこの地が神武天皇の都だったことを強調。さらに市内には日本初の本格的な都城、藤原京があることに触れ「日本のパワースポットを感じながら歩いてください」と述べた。神武天皇は古事記と日本書紀で初代天皇とされる神話上の人物。都があったというのは史実ではないが、神話の精神を敬虔に守り、神聖な空間を築いてきた人々がいる。「日本のふるさと」とも言うべき橿原神宮の神域に集い、厳かさが漂う。

橿原市長2 高取町
     20キロコース開会式。中央は森下豊・橿原市長=写真①
     高取町は富山と並ぶ薬の町でもある。街道には古い薬局があった=写真②

 近鉄の線路を渡り久米寺から新興住宅の中を抜け、飛鳥駅の前を通り高取町に入る。古い町並が残る目抜き通りは土佐街道と呼ばれている。6世紀初めに大和朝廷に徴用された土佐(高知県)の人々は、年限が過ぎても朝廷の支援がなく帰国できなかった。やむなくこの地に住み着き、郷里の名をつけてしのんだという。

 そういえば桜井市には吉備という土地がある。奈良県には他にも旧国名が地名になっているケースが多い。いずれも他国の人が住み着いた土地だとガイドさんが教えてくれた。奈良も京都もそうだが、現存する文化遺産やインフラの多くは他国の人の手になるものであり、しかも搾取の結果であるものも少なくない。せめて感謝の気持ちだけは忘れないようにしようと思った。

 高取藩は石高2万5000石。橿原と五条、和歌山、吉野を結ぶ重要な地で往来は盛んだった。江戸時代初期の1640年に植村氏が入部し、明治維新まで治めた。藩主は山の稜線にそびえる高取城に住んだが、斜面全体に櫓をめぐらした壮大なものであったという。廃藩置県後の一国一城令で取り壊しのやむなきに至った。植村氏の末裔は旧藩時代の家老屋敷に住み、当主は高取町長を務めている。

高取城現場 高取城
   高取城があった山の稜線。上り下りだけでも大変だったことだろう=写真①
   昔の高取城は山の斜面に多くの櫓が作られていた。町内に残る資料を元にした想像図=写真②

 キトラ古墳を経て文武天皇陵へ。第42代文武天皇は祖母の持統天皇から皇位を譲られた。この史実を神話の世界に投影したのが、祖母アマテラスから日本の統治を命じられるニニギノミコトの話。ニニギは神武天皇のひ祖父に当たる。古事記や日本書紀に記された年代を西暦に当てはめてさかのぼっていくと、神武天皇の即位は紀元前660年。日向(宮崎県)から東征し、大和に入ったとされる。だが考古学ではまだ縄文時代。木の実などの管理栽培は行われていたものの狩猟漁撈が中心で、クニと呼ばれる巨大な権力は出現していない。軍隊が遠征するなど荒唐無稽ということになる。

 神話と考古学。互いの主張は交わることがない。

高松塚古墳 亀石
   高松塚古墳。被葬者の推理はナゾとロマンに満ちている=写真①
   亀石。カエルみたいとも言われるが、背中には甲羅が彫ってある。=写真②

 高松塚古墳は1971(昭和46)年の発見。被葬者は分かっていない。ガイドさんに聞くと10人ほどの候補者が書かれたパネルを見せてくれた。高市皇子、忍壁皇子、弓削皇子(いずれも天武天皇皇子)、志貴皇子(天智天皇皇子)、重臣では大伴御行、石上麻呂ら。ただガイドさんたちの間では忍壁皇子が有力と見ていると話してくれた。理由は聞きそびれた。ガイドさんは被葬者についてはあまり話したがらず、ここまで聞くにも結構大変だったのだ。

 亀石はなぜここにあるのかわからない。第37代斉明女帝の菩提を弔う川原寺の結界を示すという説は聞いたがいまひとつピンと来ない。むしろ亀石を築いたエピソードが興味深かった。それによると昔、飛鳥と当麻(現在の葛城市)で水争いがあり、飛鳥が負けて一帯が干上がった。その時に多数の亀が死んだので、哀れに思った村人が彫ったのが亀石だという。ふだんは西南を向いているが、当麻のある西方をにらみつけた時、大和平野は泥田になってしまうという。

 「鬼の雪隠」「鬼のまな板」など、飛鳥の不思議な石造物の間を通って、やがて古代国家の抗争の舞台となった地域に足を踏み入れていく。

※その② 大化改新編につづく
  1. 2011/11/22(火) 14:05:07|
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第9回大和路まほろばツーデーウオーク第1日

2011年11月26日(土)10キロ 快晴

コース 橿原神宮~本薬師寺跡~天香具山~万葉の森~藤原宮跡~神武天皇陵~橿原神宮

     寝そべっていた天香具山

本当は山の辺の道に行きたかった。それには30キロコースを歩かないといけないが、昨日来の風邪に加え早朝の放射冷却で、とうてい午前6時8分京都発の近鉄橿原神宮前行きには乗れる体調ではなかった。それでも夜が明けきって冬晴れのキラキラした青空に出会うと気力が回復してくる。「まだ10キロコースなら間に合う」と8時40分の電車に乗る。

 橿原神宮のメイン会場に着いたのはちょうど10時。幸い出発はまだだったが、受け付けをしてもらっている最中にスタートの檄(げき)が轟いた。近畿のウオーキング諸団体の要職を歴任された大先輩のFさんと出会い、本薬師寺跡まで一緒に歩かせてもらう。

本薬師寺 天香具山
   本薬師寺跡には巨大な礎石が並ぶ。緑色の服の人がボランティアガイド=写真①
   「寝そべった姿」といわれる天香具山=写真②

 現在の薬師寺は平城京への遷都に伴って奈良市の近鉄西の京駅近くに移ったものだが、それ以前の藤原京時代には、橿原市のこの地にあった。もちろん建物は解体され平城京へ運ばれたため残っていない。だが庭には当時の礎石が十数個並ぶ。重機もなかった古代にこれほど巨大な石を運ぶには大変な苦労があったことだろう。本薬師寺跡では橿原市のボランティアガイドの方が、当時の図面と現在の薬師寺の写真も使い解説してくれた。それによると新旧の薬師寺はほぼ同じ規模。ともに金堂の南西と南東に塔のある同じ様式だ。藤原宮をはさんで東に大官大寺という大寺があり、薬師寺と対をなしていたという。

 梅原猛氏の著作には、大官大寺も平城京に移転したが、その際、大安寺と名を変えた。実態も官営の寺から藤原氏の支配下に入ったと書かれていたような気がする。

 天香具山を周回して古池という農業用ため池に至る。奈良県北半分の平野部には大きな川は大和川しかなく、丘陵地ではため池が多いのも特色のひとつだ。

 藤原宮跡でチェックポイント。ここから北方の耳成山、東方の天香具山、西方の畝傍山が展望できる。この大和三山について、書家の榊莫山氏は次のように記す。=「大和 千年の路」(文春新書)

 「どの山を、いちばん好きか―と問われたら、わたしは、『そりゃ、香具山さ』と答えよう。なぜか―と問われたら、『姿がよいからよ』と、いいたい。
 畝傍山も耳成山も、姿は三角で、山らしい。ひとり香具山だけが、寝そべっているのだ。背はひくく、山というより大きな丘といったほうがよく似合う。」

 その上で榊氏は、万葉集の巻頭にある、舒明天皇が香具山で国見をした際の歌や、持統天皇の「春過ぎて夏来たるらし白妙の衣干したり天の香具山」の歌に触れる。明示はしていないが、古代人の息吹をいちばん強く感じられるから好きと言うことに思える。

バナナ配布 セントくん
   チェックポイントでバナナの配布。中央手前の山が畝傍山。形がいい=写真①
   ゴールではせんとくんも登場。左は奈良県W協会のKさん。お世話になりました=写真②

 チェックポイントではバナナを配っていた。時刻はちょうど正午。周囲では弁当を広げているが私はバナナしか持ってきていない。もらったバナナと持参のバナナで軽い昼食。残りはもうわずかだ。

 神武天皇陵を過ぎメイン会場でゴール。きょうは距離が短かったので畝傍山に登ろうかとも思ったが、京都W協会の仲間のNさんが缶ビール片手におでんをつまんでいたので、私も祝杯に気持ちを切り替える。まずは風邪を治して、2日目に挑戦だ。それにしても安倍文殊院、大神神社、檜原神社、崇神・景行天皇陵など20、30キロコースの景勝地が脳裏をよぎる。やっぱり行きたかったなあ。
  1. 2011/11/22(火) 14:00:53|
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奥嵯峨の紅葉ウオーク(京都府W協会11月例会健脚コース)

2011年11月20日(日)18キロ 曇り時々晴れ一時しぐれ

コース JR保津峡駅~落合橋~六丁峠~鳥居本~嵐山公園~渡月橋~松尾大社前~阪急上桂駅

        桂川の渓谷いろどる紅葉
 
 京都府ウオーキング協会の11月健脚コース例会。雨の予報が出ていたが、前日に峠を越え、晩秋のひんやりした朝だった。

 山に囲まれたJR保津峡駅周辺には紅葉が点在し、雨上がりの柔らかな日差しを受けて輝いていた。右手にJR山陰線の軌道と桂川の流れを見ながら歩き始める。落合橋を過ぎると六丁峠への登りに。鳥居本まで下ると周囲が開け、観光客待ちの人力車も通る。

ストレッチ 195ninn.jpg
      紅葉が点在するJR保津峡駅をスタート=写真①
      「本日の参加は195人でした」(中ノ島公園)=写真②


 二尊院近くには「小倉あん」発祥の地の看板が立つ。南北朝時代や幕末維新の史実を伝える石碑や立て看板も散在する。途中で京都府山岳連盟の小旗に先導された数十人の一行に出会う。そういえばこの日は、東日本大震災被災地支援のチャリティーとして、京都トレイルを9分割して歩くイベントも行われていたのだった。

 常寂光寺門前からトロッコ嵐山駅の横を抜け、嵐山公園展望台を目指す。展望台からは眼下に桂川の渓谷が一望できる。急傾斜の山肌のそこかしこに紅葉を眺めることができた。だが本格的なシーズンは、今年も12月のようだ。ここからは時間によってはトロッコ列車が横切るのを写真に収めることもできるのだが、我々のいた間には通らなかった。

 観光客であふれる渡月橋を何とか渡り、中ノ島公園で昼食をとる。

 京都トレイルと呼ばれる山道をとり松尾山を目指すのが本来のコースだったが、前日の大雨で道が荒れていることが想定され、ふもとの舗装道を一路南へ。ゴールには午後1時半に到着でき理想的な流れだった。中には参加者をねぎらう協会役員の列に「物足らんなあ」と言い残して立ち去る人もいたのだが…。

 下見で通ったトレイルは京都市街地を望むビューポイントはあるが、最後のところに急な下りがあり、好天でも危険なコース。事故が起きるのは一瞬だが起きてしまったら取り返しがつかない。通らずに済み全員無事に帰途につけたのは天の配剤と思い感謝している。
  1. 2011/11/20(日) 22:10:55|
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綾部市・向日市友好交流ウオーク

2011年11月19日(土)7キロ 雨 

コース 向日市まつり会場(向日町競輪場)~物集女車塚古墳~竹の径~向日神社~長岡京大極殿跡~向日市まつり会場

        遠来のウオーカーに無情の雨 
  
 田舎暮らしをアピールして過疎からの脱却を目指す京都府北部の綾部市と、京都市に隣接し大阪市へも通勤圏の地の利を生かした暮らしやすい住宅地を目指す向日市。まちづくりの方向の違う両市だがウオーキングを市民の健康づくりに取り入れていることは共通している。それが縁となり2004年から毎年、偶数年は綾部市、奇数年は向日市を会場に交流ウオークを交互に開催している。綾部市には志賀郷地区と上林地区に向日市民の森がある。面積347平方キロの綾部市に比べ7.67平方キロの向日市は「箱庭のようなまち」(久嶋務市長)だが、桓武天皇の長岡京中心部をはじめ桂川の水運に由来する中近世の史跡も多く歴史が凝縮されている。その中でも代表する歴史遺産を集めた「綾部市民のためのコース」が設けられており、この日もそのコースをたどった。
 
 朝から雨。まつり会場のいすに座ることもできずステージを遠巻きにしての開会式となった。向日市の久嶋市長が「狭いまちなので気をつけて歩いてください」とあいさつ。綾部市からバスで訪れた一行の代表として上原直人副市長が、感謝の言葉を述べた。雨のためストレッチ体操もできずスタートする。

向日市長 物集女車塚古墳
    あいさつする向日市長。後方は綾部市からの代表=写真①
    物集女車塚古墳玄室には10人程度しか入れないので順番を待つ参加者=写真②
           
 物集女車塚古墳は全長約45メートル高さ8メートルで、古墳時代後期(6世紀中葉)の前方後円墳。江戸時代に淳和天皇(786―840年)の陵の候補とされたという。ちなみに近くには淳和天皇火葬塚もあるがこちらも古墳時代のもので9世紀の天皇とは時代が合わない。淳和天皇は散骨をしたと記録にあり、本来陵墓があること自体がおかしいのだが、明治になって陵墓は向日市西方に当たる京都市西京区の小塩山山頂付近に比定された。この日は、その小塩山も見えなかった。

 特別に羨道から石棺のある玄室まで公開してくれていた。太古の権力者の奥つ城にいながら、わたしも含め多くの参加者にとっては雨に濡れて肌寒く、当時に思いをはせるどころではなかった。案内係を務めてくれた市の埋蔵文化財センターの担当者にも残念な天気だったと思う。

 竹林の中につくられた散策路が「竹の径」。観光地だけあって、青く太い若竹がまばらに生える、手入れの行き届いた竹林がほとんどだが、中には土色に黒い斑点の入った老いた竹が密集した放置竹林もある。タケノコの需要だけでは限界がある。竹製品がプラスチックにとって代わられ、昔ほど使われなくなったことが、竹の里である乙訓にも影を落としているようだ。

竹の径 飲み物
       竹の径。雨のため薄暗かった=写真①
       向日神社で飲み物のプレゼント=写真②

 向日神社は社伝によると奈良時代・養老2年(718年)の創建と伝えられている。また本殿は、応永29年(1422年)に建造されたもので、室町時代の建築様式の『三間社流造』といい、国の重要文化財(明治35年)にも指定されている。

 ここでコース役員から飲み物を手渡される。

 短命の都があった長岡宮大極殿跡も雨のため横目で見ながら素通り。2010年3月に天皇陛下が来られた時はさぞにぎわったことだろうが、この日は閑散としていた。

 ゴール後、綾部市のメンバーはバスの出発時間の午後2時半まで、まつり会場の模擬店で思い思いに昼食。向日市では有名な中華料理店や蕎麦屋、居酒屋が屋台を並べ、ビールや樽酒にもそれなりの客足がみられた。それにしても、雨の中を長時間道案内に立ってくれた向日市の各団体の皆様。ありがとうございました。  
  1. 2011/11/19(土) 20:56:43|
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山城遷都と桓武天皇~苦悩から栄光への道

2011年11月13日(日) 向日市民会館 市民考古学講座講演会(向日市埋蔵文化財協会主催)

講師 井上満郎・京都市歴史資料館長・京都産業大学名誉教授

     渡来系を重用、新時代開く

 向日市埋蔵文化財研究センターは8年前から、市民考古学講座を開いている。今年のテーマは「遷都の道」。平城京、長岡京、平安京などを歩いて訪ねる催しなどを開いている。この日は関連する講演会が開かれ、井上氏は政争が相次いだ奈良時代を概観したあと、第50代桓武天皇が渡来人の力を借りて長岡京、平安京で新時代を切り開こうとした軌跡を述べた。講演の要旨は下記の通り。

 遷都というものは政治的な問題解決のため行われる。桓武天皇が行った平城京から長岡京への遷都は、奈良時代の政争を止め新時代を開くためだった。それは天皇の血筋にも原因する。

 奈良時代の権力者は藤原不比等→長屋王→藤四子(藤原4兄弟)→橘諸兄→藤原仲麻呂→道鏡、と続いた。この間、多くの皇族や藤原一門が政争やクーデターで横死した。後期の第48代称徳女帝は道鏡に天皇位を譲ろうとしたが「僧が政府の中心に入った例がない」といった反対論に対し、道鏡の行状をほめることなど言い訳のような反論にとどまっており、必ずしも権力基盤は強くなかった。

 やがて称徳天皇が死去し、皇太子を定めていなかったことから白壁王(天智天皇の孫。父は万葉集に「采女の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く」「石(いわ)ばしる垂水の上のさ蕨の萌えいづる春になりにけるかも」などの秀歌を残す志貴皇子)を推す藤原百川らと文屋浄三(ふんやのきよみ)、大市(おおち)兄弟を推す吉備真備が対立。百川らは浄三らに辞退させるとともに、天皇の遺勅を偽造することで白壁王を帝位につけた(光仁天皇)。この対立は氏族による利権争いと見るのが妥当。(平安時代に入って藤原氏が権力の中枢を独占するようになるが、その始まりはここにもありそうだ。第49代光仁天皇は即位時に62歳で、当時の貴族の平均寿命の約50歳をはるかに超えていた。対立候補の文屋兄弟も高齢。ショートリリーフが必要とされたのだろうか)

 光仁天皇の皇太子は聖武天皇を母方の祖父に持つ他戸親王がついたが、母の井上内親王が天皇を呪詛したと罪に問われて廃され、代わって山部親王が皇太子になり、天応元年(781年)譲位されて桓武天皇となった。翌年、天武天皇のひ孫、氷上川継がクーデターを起こそうとするなど当初は皇位が安定しなかった。

 延暦3年(784年)に長岡京に遷都。長岡の地を選んだのは交通の便はもちろんだが、天皇の母で渡来系の出自の高野新笠の実家の勢力圏が向日市に隣接する現在の京都市西京区大枝地区で、陵墓もこの地にある。天皇も幼少時はこのあたりで育ったからではないか。

 翌年、遷都の工事責任者だった藤原種継が暗殺される。天皇は出先の平城旧都から取って帰し実行犯の身柄を確保。拷問で尋問するうち事件が、すでに死亡していた大伴家持を首班に、早良皇太子を天皇位につけ大伴、佐伯といった古墳時代以来の氏族の再興を図る狙いだったとの構図が見えてきた。大伴家持は万葉集の編集者で文化人のように思われているが、クーデター計画にかかわるのは3度目で、極めて政治的な人間だった。(早良親王は淡路へ護送される途中絶食して死去。後年、たたりを恐れた朝廷から崇道天皇の称号を追贈される)

 続日本紀によると、事件の直後の延暦4年(785年)11月条と6年11月条に、「天神を交野に祀る」とあり、中国の天子が国都の南郊に壇を築いて天地を親祭する郊祀(こうし)を現在の大阪府枚方市か交野市の地で行った。6年の条には、先帝の光仁天皇を天神と同じく祀ったとあり、光仁天皇から皇統が天武系から天智系に変わったことを強く意識していた。郊祀を行ったのは桓武天皇が2回と、後の第55代文徳天皇が1回だけ。文徳天皇の時も交野で行ったが、都は平安京に移った後であり、南郊という条件を満たさなくなっている。文徳天皇は形だけまねたのではないか。
 
 桓武天皇の閣僚には渡来系の人が3人おりその一人が坂上田村麻呂。渡来系を閣僚級に起用したのは桓武天皇だけ。奈良時代の政争に関与した氏族を避けて、手の汚れていない彼らを重用したのではないか。

桓武天皇陵参道 IMG_2197_convert_20130210192154.jpg
 桓武天皇陵への参道(京都市伏見区)=写真①
 桓武天皇皇后(藤原乙牟漏)陵(向日市)=写真②

 治世の25年は、この時代では第45代聖武天皇と並んで長い。日本後紀延暦24年(805年)12月条には、徳政争論と呼ばれる箇所があり、この間、庶民は軍事(蝦夷征伐)と造作(新都建設)の負担に苦しんだとの指摘がある。だが翌年4月の桓武天皇の葬送について述べたくだりでこの2つを「当年の費(ついえ)と言えども後世頼りとす」と評価している。

 桓武天皇陵は京都市伏見区桃山にあるが、このあたりは豊臣秀吉の伏見城築城で地形が大幅に変わっている。現在の陵は本当に桓武天皇のものかどうかは疑問。
  
 会場からの質問

Q 郊祀を行った交野という土地はどのような土地か

A 都の南郊という条件で選んだ。長岡京のすぐ南は低湿地だったのでここまで行ったのだろう。古墳時代には物部氏の領地だったが、直接の関係はないと思う。(2007年に第26代継体天皇即位1500年にちなむシンポジウムが枚方市で開かれた。樟葉宮の関連だったと思うが、枚方市の交野天満宮の写真が出てきたのを思い出した)

Q 大友皇子について教えてほしい

A 明治になって第39代弘文天皇として皇位が認められた。実際にも、父である天智天皇の死後、おそらく即位したと思う。少なくとも天皇としての国事行為は行っている。日本書紀などの歴史書で即位が記されてないのは当然。壬申の乱の勝者である大海人皇子(天武天皇)にとって、天皇に弓を引いたとされるのは都合が悪い。記録が抹殺されたのであろう。 
  1. 2011/11/13(日) 16:52:19|
  2. 歴史
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精神障害者との共生(ともいき)とは

2011年11月12日(土)日本精神障害者リハビリテーション学会第19回京都大会
佛教大学紫野キャンパス常照ホール

      不安解消が地域ケアの決め手
  
 11日から13日まで京都で開かれた日本精神障害者リハビリテーション学会の目玉は、開会式直後に開かれたコングレスタックル「はんなりとたぎる」。壇上には医師、臨床心理士、作業療法士、看護師、作業所スタッフ、障害当事者ら12人が並ぶ。感じたことを述べ合い、会場の聴衆も遠慮なく参加するという斬新なスタイル。少々の対立はかまわないので本音で語り合ってほしいという大会長の思いが反映された場だった。

 精神障害者に対しては、昔は入院治療が主流だったが、長期にわたる隔離に加え時には患者への虐待も問題になった。患者は一般社会から切り離されたあげく偏見を持たれた。その反省もあり、数年前から入院治療に替えて地域でのケアを主流とする動きが出ている。言葉のタックルはそのような背景をもとに企画された。

 会は、当事者から出た「巡回職員が帰ってしまった夜は一人で不安」との発言が問題提起となり、解決のためどうすればいいかという点から始まった。精神科の医師は当直に当たっている際、毎日のように電話をしてくる人がいることを明らかにし、そのような人にどのようにケアすればいいのかと疑問を投げかけた。別の医師は「時間単価の高い医師に何から何まで、というのは無駄が多いが、今は法律もそうなっている」と現状の問題点を指摘した。

 北海道の医師からは、札幌市で24時間態勢で相談を受けているが、大部分は相談だけで解決するので、医療部門への負荷は少なくなっている、との報告があった。地域ケアの促進には、当事者の不安をなくしていく態勢作りの必要性を述べる声が多かった。

 専門職の間で相互乗り入れする点について、宮城、福島の参加者から、震災の時は誰が何の職種だからとは言ってられない状況だったので何でもやった。できないのは制度というより、個人の考え方の問題では、との発言があった。

 聞いていて感じたことは、やはり医師に高報酬が与えられる半面、負荷がかかりすぎている現状だ。それと、これまで精神障害者は一般社会から隔離されてきたので、いわゆる普通の人も偏見が多く、自分たちの問題として考えなくなっていることだ。私が小中学生の時も精神病院のことを平気で「きちがい病院」と呼んでいたことを、今となれば苦い思いで振り返っている。

 それと、どんな職種の人も使命感をもって支援に当たっていることを再認識した。ボランティア精神のない私には頭が下がる思いだった。
  1. 2011/11/12(土) 23:00:04|
  2. 福祉
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東海自然歩道と布目川甌穴ウオーク(1800W、南山城村・笠置町)

2011年11月6日(日)10キロ 曇り時々小雨

コース JR大河原駅~やまなみホール~恋志谷神社~東海自然歩道~布目川甌穴~布目川発電所~わかさぎ温泉笠置いこいの館~JR笠置駅

             鍋まつり目指し木津川畔イッキ

 京都府ウオーキング協会の1800ウオークの一つ。全国で約1800ある市町村を訪ねて歩こうという試みで、同協会では京都府内26自治体を会場に順次例会を設定している。今回は府東南端の南山城村と笠置町が舞台。おもに木津川づたいに両自治体の中心部を結ぶコースだ。

 南山城村は京都府唯一の村で三重県と奈良県、滋賀県に接する。昔は南の奈良県月ヶ瀬村と、東の三重県島ヶ原村とで3村ソフトボール大会などの交流を行っていたというが、島ヶ原村は2004年に上野市など1市3町2村で大合併し伊賀市の一部となった。月ヶ瀬村はその翌年に奈良市に編入合併されている。南山城村も同じ相楽郡内で大合併の機運が芽生えた時期があったが、中西部の木津町、山城町、加茂町が先行合併して木津川市となり、南山城村と西隣の笠置町はともに取り残された。両町村が小規模自治体としてどのように存続するのか、予断を許さない。

  午前10時の集合時間には降っていなかったが、一日中雨との予報で集まりは悪く97人の参加にとどまった。村役場近くの、やまなみホール横で催された開会式では手仲圓容(てなか・かずひろ)村長があいさつ。村内の旧開拓地で標高600メートルの童仙房の紹介などしてくれた。

 JR大河原駅から木津川を渡った南岸にあるのが恋志谷(こいしだに)神社。鎌倉時代末期の元弘元年(1331年)、倒幕を企てていた後醍醐天皇は、その計画が幕府側に知れ、笠置山に身を潜めた(元弘の変)。これを聞いた妃は、伊勢で病気療養中だったが、病をおして駆けつけた。だが到着した時には天皇は追っ手から逃れるため、笠置山を後にしていた。妃は悲しみと長旅の疲れで持病を再発しこの世を去った。妃を哀れんだ人々が祠を建て祀ったが、妃が最期まで「恋しい、恋しい」と言い続けていたことから、愛着を込めて「恋志谷さん」と呼ばれるようになったという。

 今は恋愛の神様として知られる。敷き詰められた石はハート型のものが多いと聞いていたが、実際に手にとってみると、幾分こじつけのような気がした。

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            恋志谷神社=写真①             
            布目川の甌穴=写真②

 木津川沿いに東海自然歩道を西へ向かう。案内板にしたがって支流の布目川河原に出ると甌穴(おうけつ)群が目に入る。岩盤だらけの河床にいくつもの穴。。河底のくぼみに、うずまき流が生じ中に落ち込んだ小石が回転しながら河床を深く削ってできるという。この辺りの河床は非常に堅い花崗岩で成り立ち、甌穴がこのような所にできるものは珍しく、今の状態になるまで途方もなく長い歳月がかかったものと推定される。この甌穴は九つ壺と呼ばれ、地元で親しまれているという。雨上がりで滑りやすいので河原の岩の上に降りるのはみんな自粛した。

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         木津川の流れ(笠置橋から上流を望む)=写真①
         全国ご当地鍋フェスタのにぎわい=写真②

 ゴールの、わかさぎ温泉笠置いこいの館では第26回国民文化祭・京都2011の協賛行事「全国ご当地鍋フェスタ」が開かれているので、鍋料理を目指してゴールまで昼食をとらないという異例の運営だったが、参加者も鍋で心を一つにし、極端にゆっくり歩く人はいなかった。笠置町側のセレモニーが木津川河川敷で催されている間、雨が一時期強くなったものの、ゴールに向かう途中やんだ。

 フェスタ会場には熊本県から秋田県まで24店舗が軒を連ねていたが、地理的に近い京都府南部と奈良県、三重県の店が目立った。岐阜県各務原市のキムチ鍋(400円)と、木津川市の恭仁京鍋(豚汁・200円)を食べる。いずれも具だくさんで値打ちがあった。山梨県甲府市の「こうふ食(く)ほうとう」も太目の麺がおいしそうだったが、食べ過ぎて苦しくなりそうで断念した。念のためと思って、軽い弁当を持参したことを悔やんだ。

 空模様は雨が降りそうでいて本降りにはならない絶妙のバランス。午後1時半の段階でも多くの店でなお完売しておらず、客である我々は十分に選択しながら、たらふく味わうことができたが、フェスタの関係者には気の毒な天気だった。
  1. 2011/11/05(土) 19:42:25|
  2. ウオーキング
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