京都駅前つれづれ通信

ウオーキングを中心に、日々気付いたことを紹介します。ご意見をお聞かせください。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

加賀百万石ツーデーウオークプロローグ1 室生犀星記念館を訪ねて

   抒情詩人犀星 晩年の「女性好き」

小景異情 その二

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食(かたゐ)になるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや

徳田秋声泉鏡花室生犀星 金沢青バス
写真①=兼六園下にある3文豪の像。左が犀星、中央は泉鏡花、右は徳田秋声
写真②=金沢の観光用の青色循環バスには「犀星」の名がある

 ウオーキングで各地を旅行する楽しみの一つは、歩いた後にその土地の作家の記念館を訪ねることだ。これまで印象に残っているのが岩手県花巻市の宮沢賢治と北九州市小倉北区の松本清張だった。さて金沢では3人の文豪がいる。徳田秋声、泉鏡花、室生犀星。いずれも近代文学史に登場する個性派だが、私にとっては正直、賢治や清張ほど身近でない。その中では昔、高校の教科書に載っていた「小景異情 その二」に感動した体験があったことから、室生犀星記念館へと足を運んだ。

 室生犀星[1889(明治22)~1962(昭和37)]の前半生は過酷だった。加賀藩にて足軽組頭を勤めた小畠弥左衛門吉種を父とし、ハルという名で小畠家に奉公したとされる女中を母として生まれた。生後7日で生母から離され7歳の時に犀川大橋詰の真言宗寺院雨宝院の住職、室生真乗の養嗣子となり、室生姓を名乗ることになる。寺の奥方の顔色を見ながら、おびえて過ごす日々だったと後に書き記している。高等小学校を卒業後、裁判所給仕の職を得る。やがて退職し文学を志して東京へ出るが一度は挫折、金沢に帰郷する。「小景異情 その二」はそんな折の屈折した心情を抒情的に歌い上げている。

 あんず詩碑 犀星直筆原稿
写真①=犀川河畔にある犀星の詩碑
写真②=宿泊したホテルに飾られていた自筆原稿

 犀星は犀川をこよなく愛した。犀川大橋を上流へ向うと、流し雛を型どった赤御影石の犀星詩碑がある。春にはその頭上をあんずの花で飾る。犀星自筆の陶板には「小景異情」の一節あんずの詩が刻まれている。

 小景異情 その六

あんずよ
花着け
地よ早やに輝け
あんずよ花着け
あんずよ燃えよ
ああ あんずよ花着け
 
 宿泊したJR金沢駅近くのホテル2階宴会場の廊下に、犀星の自筆原稿が、鏡花の色紙、秋声の短冊とともに飾ってあった。実物はホテルが所蔵しており、複製にして展示していると、仲居さんが教えてくれた。

 蝉頃

いづことしなく
しいいとせみの啼きけり
はや蝉頃となりしか
せみの子をとらへむとして
熱き夏の砂地をふみし子は
けふ いづこにありや
なつのあはれに
いのちみぢかく
みやこの街の遠くより
空と屋根とのあなたより
しいいとせみのなきけり

犀星記念館フロント 雨林院
写真①=生誕の地に建っている室生犀星記念館フロント
写真②=犀星が生まれてすぐ引き取られたという雨宝院

 抒情的な多くの詩を残し文学の道を極めた犀星は、小説に転じここでも文壇の賞賛を浴びる。戦後の一時期、人気作がなく忘れられた感があったが、随筆「女ひと」で脚光をあびる。その中の「えもいわれざる人」で次のように言う。「少女は翻訳調の名文よりか、革の手袋とか時計とかを、よろこぶものである」。

 一流詩人といわれた人だ。その詩は大正時代の少女の心をときめかしたことだろう。それなのに、女性の心を捉えようとする際には、文学の力などプレゼントに及ばないと、見切ってしまっていることが興味深い。

 室生犀星記念館のビデオ映像で、詩人で近代文学研究者の伊藤信吉氏と、堀辰雄の妻で随筆家の堀多恵子さんらが、犀星の思い出を語っている。その中に既に老境に入った犀星が「私が電車に乗るのは、女生徒の足を見たいからだよ」と語ったと話している。

 ハッとするようなエピソードだった。筆者は早朝の電車で任地に向かう際、乗り合わせた通学の女子高生から「他人の足ばかり見て身持ち悪いですよ」と抗議を受けたことがある。二日酔い状態でぼんやりと、対面するドアの窓から外を眺めていたのだが、ドアの傍らに制服のスカートを短くした生徒が立っていたのだ。幸いそれ以上の騒ぎにはならなかったが、痴漢の冤罪に巻き込まれるとはこのような状況かと恐ろしく思ったことがあるからだ。

 「いい歳をして」とは言うまい。むしろ老境に入ったからこそ好色な気持ちが頭をもたげてくるのかもしれない。親しい仲間に漏らした本音が、没後にエピソードとして公開されるとは、犀星もよもや思わなかったであろう。

 犀星は好色さを晩年の文学に昇華させたのであろうか。「心の欲するところに従えど矩を超えず」の心境に至ったのだろうか。後期の作品を分析しないと何とも言えないが、いずれにしても晩節を汚すことなく天寿を全うできたことは幸せであった。
スポンサーサイト
  1. 2012/06/03(日) 10:51:41|
  2. 文学
  3. | コメント:0

讃岐うどんつるつるツーデーウオーク第1日(その2・沙弥島の石中死人)

2012年4月7日(土)35キロ 晴れのち曇り一時小雨

コース JR坂出駅前市民広場~鎌田池公園~西光寺~円通寺~青ノ山~丸亀城~宇多津臨海公園~沙弥島~瀬戸大橋記念館~JR坂出駅前市民広場

   流人人麻呂、慟哭の調べ

 梅原猛氏の著作「水底の歌」が出たのは1973(昭和48)年だった。「人麻呂は流罪、刑死した」との宣伝文が強烈で、すぐに買って読んだ記憶がある。万葉集の代表的な歌人で「歌聖」とも称される柿本人麻呂は第41代持統天皇のころまでは宮廷歌人として重用されたが、藤原不比等らとの政争に敗れ、罪人として各地を流浪し、最後は石見国(島根県)の海岸で処刑され水死するという中身だった。

 日本書紀では人麻呂の最期を庶民と同じ「死」と表記し、身分の高い人に用いる「薨」「卒」を使っていない。それゆえ人麻呂は下級官吏で、旅の歌が多いのも地方への赴任の故、というのが、江戸時代の国学者・賀茂真淵以来の定説だった。だが、死後200年以上後の平安時代初頭に編さんされた古今和歌集の序文には人麻呂を「おほきみつのくらい(正三位)」と記している。

 真淵は単に誤りとしか見なかった。だが梅原説に立てば疑問は氷解する。人麻呂は高位の官人だったが罪に問われたので「死」としか記されなかったのだ。地方の歌が多いのは配流されたためだったと示唆している。

 沙弥島の死人を見て詠んだ歌もその一つだが、流人としての自らの運命を死人に重ねたとしたら、慟哭の響きはさらに悲痛の度を増す。

人麻呂歌碑 人麻呂碑
   人麻呂の歌を伝える石碑=写真①
   「柿本人麻呂」の文字は歌人・川田順が書いた=写真②

 讃岐の狭岑の島(沙弥島)にして、石の中の死人を見て、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首 并せて短歌 巻②220~222
                                                   
玉藻よし 讃岐の国は 国からか 見れども飽かぬ 神からか ここだ貴き 天地 日月を共に 足り行かむ 神の御面と 継ぎ来る 中の湊ゆ 舟浮けて 我が漕ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに 沖見れば とゐ波立ち 辺見れば 白波さわく いさなとり 海を恐み 行く舟の 梶引き折りて をちこちの 島は多けど 名ぐはし 狭岑の島の 荒磯面に 廬りて見れば 波の音 しげき浜辺を しきたへの 枕になして 荒床に ころ臥す君が 家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを 玉鉾の 道だに知らず おほほしく 待ちか恋ふらむ 愛しき妻らは

妻もあらば 摘みて食げまし 沙弥の山 野の上のうはぎ 過ぎにけらしや
               
沖つ波 来寄する荒磯を しきたへの 枕とまきて 寝せる君かも

 「水底の歌」によると、古代には身分の高い人を孤島に流し、餓死するのを待ったと指摘している。流罪といいながらも実質的には死罪だったという。万葉集にはこんな歌もある。


麻続王、伊勢の国の伊良虞(いらご)の島に流さゆる時に、人の哀傷(かな)しびて作る歌

打ち麻(そ)を麻続(をみ)のおほきみ海人なれや伊良虞の島の玉藻刈ります

麻続王、これを聞きて感傷(かなし)びて和(こた)ふる歌

うつせみの命を惜しみ波に濡れ伊良虞の島の玉藻苅り食(は)む(万1―24)
(命が惜しいので、私は波に濡れながら、伊良虞の島の海藻を刈り取って食べている)


 それゆえ沙弥島はぜひ訪ねてみたい場所だった。読後40年を経てウオーキングで訪ねることができたのは幸いだった。だが万葉集にある絶海の孤島のイメージは早くも破られた。昭和40年代の埋め立てで陸続きになっており民家も散在している。島のすぐ東を、本州と四国を結ぶ瀬戸大橋が通っていた。
 
沙弥島全景 中河与一
   沙弥島の全景。約40年前の高度成長期に埋め立てで陸続きになった=写真①
   坂出市出身の作家・中河与一を記念する愛恋無限文学碑=写真②

 それでも南北1キロ、東西200メートルのかつての島部分に入ると風景が変わる。急斜面に土がむき出しになっており、浜辺の墓地のすぐ横まで波が洗っているのが何とも荒涼としている。貴人を置き去りにして餓死を待つをいう梅原説にはふさわしい光景だ。ここには古墳も多い。流罪になった人のものだろうか。

 島の浜辺には歌人・川田順の書による「柿本人麿」の碑や、石中死人の歌の碑、愛憐無限碑がある。地元坂出市出身で代表作「天の夕顔」で有名な作家・中河与一氏の小説「愛恋無限」は万葉集の柿本人麻呂の「石の中に死れる人を視てつくる歌」に通うものがあり、これを記念して昭和52年に建立された。

 人里近いはずなのに、島の中は異空間だ。倒木の多い、荒れた山道を踏みしめる。農作物を耕作する平らな地はほとんどない。ここで流人になったらどうやって食いつなごう…。そんな恐怖にかられながら歩いた。島を周回して舗装路に出る。コース沿いに瀬戸大橋記念館が見えてくる。休日の賑わいの中、ようやく現代に戻ることができた。  
  1. 2012/04/19(木) 11:11:33|
  2. 文学
  3. | コメント:0

プロフィール

きょうつれづれ

Author:きょうつれづれ
京都駅前つれづれ通信へようこそ!

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

未分類 (0)
時事 (2)
ウオーキング (97)
福祉 (1)
歴史 (2)
カフェ・レストラン (4)
書評 (1)
文学 (2)
医療 (2)

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。