京都駅前つれづれ通信

ウオーキングを中心に、日々気付いたことを紹介します。ご意見をお聞かせください。

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加賀百万石ツーデーウオークプロローグ2 前田家の史跡を訪ねる

   徳川を気遣う前田の苦悩

 金沢市は、小京都と呼ばれる自治体が集う「全国京都会議」のメンバーだったが、2009年に退会した。「京は公家文化、金沢は武家文化。似たところはあるが背骨が違う」と、その理由が報じられていた。加賀百万石ツーデーウオークに参加するため訪れた今回、武家文化の一端に触れるのも目的の一つだった。
 
前田利家像 金沢尾崎神社
写真①=兼六園下にある藩祖・前田利家の像
写真②=東照大権現(家康)を祭神の一人とする尾﨑神社

 金沢は前田家百万石の城下町。関ケ原の戦いに先駆けて徳川家康に臣従したため、大身のまま所領を安堵された。天下統一を果たした豊臣秀吉が1598(慶長3)年に死去。「次の天下は前田殿」とうわさされた藩祖利家も後を追う。家康が婚姻などを通じて秀吉恩顧の大名に接近する中で、淀君と豊臣秀頼母子は孤立感を深めていた。そんな情勢下でのことだ。
  
 ありもしない自身への暗殺計画をでっちあげて前田征伐を言い出したのは家康の言いがかりである。だが「申し開きをして誤解を解く」という利長を、母で利家の妻のまつ(芳春院)は「誤解ではなく謀略だ」と叱りつける。そして「そなたには天下を支配する器量はないので、前田家の存続のみを考えよ」と説く。

 芳春院は、家康の要求に応じて、事実上の人質として大阪に出向く。すると豊臣への人質でありながら、家康は自分への人質として江戸へ送る。「話が違う」と怒る弟の利政を、今度は利長が「一度ひざを屈したものが、二度目に牙を剥くことができようか。戦機は既に去った」となだめる(司馬遼太郎「関ヶ原」)。

 事実であればこの頃の話だろう。2003年のNHK大河歴史ドラマ「利家とまつ」で、淀君(配役・瀬戸朝香)が豊臣方に加担させようと芳春院(松嶋奈々子)を呼ぶ。だが、芳春院は「前田は徳川様の家来でありますから」と言って断る。「子々孫々に至るまで」と言ったか、「未来永劫」と言ったか、いずれにしても徳川に臣従して前田を守るという方針を象徴する場面であった。

 家康は自分より強い者に従うのは当然と考えていたふしがある。相手は織田信長であり、秀吉であり、一時期は関東を支配した北条氏政、氏直父子に対しても下手に出ることをいとわなかった。それゆえ関ヶ原以降の淀君、秀頼母子の姿勢には腹に据えかねるものがあっただろう(山本七平「徳川家康」)。だから、前田家の臣従を、同じ価値観をもつものとして、好意を持って受け入れたことは十分考えられる。

天徳院 江戸町跡2
写真①=徳川家から輿入れした珠姫の菩提寺・天徳院
写真②=兼六園と金沢城公園の間にある江戸町跡の立て札 

 関ヶ原の翌年、徳川家では秀忠の二女・珠姫を、前田利長の異母弟で第3代藩主となった利常に輿入れさせる。このときわずか3歳。2010年のNHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国」では、珠姫の母・江(配役・上野樹里)が夫の秀忠(向井理)に「まだ幼いのにかわいそうだ」と反対する場面があった。だが、珠姫の輿入れは芳春院を人質にとった見返りでもある。かくして江の反対は押し切られる。

珠姫と一緒に加賀に移った従者が住んだという江戸町の跡が見つかっている。金沢城と兼六園の間の一等地。幕府に良い印象を与えようとした前田家の苦心が、ここでもうかがえる。

 珠姫の菩提寺・天徳院が1623(元和8)年、5代藩主・前田綱紀によって創建される。門前には「珠姫の寺」と書かれた大きな石柱があり、珠姫の金沢での知名度の高さを裏付ける。石川県の地元紙・北國新聞社では漫画「おてんば珠姫さま!」を刊行。珠姫を主人公に加賀藩の産業や歴史を学べる内容になっている。珠姫は今でも人々に親しまれているようだ。

 一方、金沢城公園の近くにある尾﨑神社の祭神の一人は東照大権現、つまり家康だ。加賀藩が幕府の許可を得てまつったという。1643(寛永20)年、第4代藩主・前田光髙の建立。葵の御紋が随所に使われ、西の東照宮とも呼ばれるという。

卯辰山三社入り口 豊国町2
写真①=卯辰山にある豊国神社
写真②=旧豊国町を示す石碑があった

 前田家と加賀藩は徳川幕府に対する涙ぐましいまでの気遣いによって、改易も国替えもなく14代の命脈を保ち明治維新を迎える。だが、幕府が消滅した1868(明治元)年、卯辰山に豊国神社ができる。徳川時代には幕府をはばかって、卯辰山山王、または卯辰観音と呼ばれていたところだ。山を下ったあたりには豊国町という町名もできた。この時期の秀吉の復権は何を意味するのだろうか。

 徳川家への忠誠が面従腹背であったことも考えられるが、断定するには研究不足は否めない。ここでは事実の指摘だけにとどめたい。
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  1. 2012/05/27(日) 22:47:59|
  2. 歴史
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山城遷都と桓武天皇~苦悩から栄光への道

2011年11月13日(日) 向日市民会館 市民考古学講座講演会(向日市埋蔵文化財協会主催)

講師 井上満郎・京都市歴史資料館長・京都産業大学名誉教授

     渡来系を重用、新時代開く

 向日市埋蔵文化財研究センターは8年前から、市民考古学講座を開いている。今年のテーマは「遷都の道」。平城京、長岡京、平安京などを歩いて訪ねる催しなどを開いている。この日は関連する講演会が開かれ、井上氏は政争が相次いだ奈良時代を概観したあと、第50代桓武天皇が渡来人の力を借りて長岡京、平安京で新時代を切り開こうとした軌跡を述べた。講演の要旨は下記の通り。

 遷都というものは政治的な問題解決のため行われる。桓武天皇が行った平城京から長岡京への遷都は、奈良時代の政争を止め新時代を開くためだった。それは天皇の血筋にも原因する。

 奈良時代の権力者は藤原不比等→長屋王→藤四子(藤原4兄弟)→橘諸兄→藤原仲麻呂→道鏡、と続いた。この間、多くの皇族や藤原一門が政争やクーデターで横死した。後期の第48代称徳女帝は道鏡に天皇位を譲ろうとしたが「僧が政府の中心に入った例がない」といった反対論に対し、道鏡の行状をほめることなど言い訳のような反論にとどまっており、必ずしも権力基盤は強くなかった。

 やがて称徳天皇が死去し、皇太子を定めていなかったことから白壁王(天智天皇の孫。父は万葉集に「采女の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く」「石(いわ)ばしる垂水の上のさ蕨の萌えいづる春になりにけるかも」などの秀歌を残す志貴皇子)を推す藤原百川らと文屋浄三(ふんやのきよみ)、大市(おおち)兄弟を推す吉備真備が対立。百川らは浄三らに辞退させるとともに、天皇の遺勅を偽造することで白壁王を帝位につけた(光仁天皇)。この対立は氏族による利権争いと見るのが妥当。(平安時代に入って藤原氏が権力の中枢を独占するようになるが、その始まりはここにもありそうだ。第49代光仁天皇は即位時に62歳で、当時の貴族の平均寿命の約50歳をはるかに超えていた。対立候補の文屋兄弟も高齢。ショートリリーフが必要とされたのだろうか)

 光仁天皇の皇太子は聖武天皇を母方の祖父に持つ他戸親王がついたが、母の井上内親王が天皇を呪詛したと罪に問われて廃され、代わって山部親王が皇太子になり、天応元年(781年)譲位されて桓武天皇となった。翌年、天武天皇のひ孫、氷上川継がクーデターを起こそうとするなど当初は皇位が安定しなかった。

 延暦3年(784年)に長岡京に遷都。長岡の地を選んだのは交通の便はもちろんだが、天皇の母で渡来系の出自の高野新笠の実家の勢力圏が向日市に隣接する現在の京都市西京区大枝地区で、陵墓もこの地にある。天皇も幼少時はこのあたりで育ったからではないか。

 翌年、遷都の工事責任者だった藤原種継が暗殺される。天皇は出先の平城旧都から取って帰し実行犯の身柄を確保。拷問で尋問するうち事件が、すでに死亡していた大伴家持を首班に、早良皇太子を天皇位につけ大伴、佐伯といった古墳時代以来の氏族の再興を図る狙いだったとの構図が見えてきた。大伴家持は万葉集の編集者で文化人のように思われているが、クーデター計画にかかわるのは3度目で、極めて政治的な人間だった。(早良親王は淡路へ護送される途中絶食して死去。後年、たたりを恐れた朝廷から崇道天皇の称号を追贈される)

 続日本紀によると、事件の直後の延暦4年(785年)11月条と6年11月条に、「天神を交野に祀る」とあり、中国の天子が国都の南郊に壇を築いて天地を親祭する郊祀(こうし)を現在の大阪府枚方市か交野市の地で行った。6年の条には、先帝の光仁天皇を天神と同じく祀ったとあり、光仁天皇から皇統が天武系から天智系に変わったことを強く意識していた。郊祀を行ったのは桓武天皇が2回と、後の第55代文徳天皇が1回だけ。文徳天皇の時も交野で行ったが、都は平安京に移った後であり、南郊という条件を満たさなくなっている。文徳天皇は形だけまねたのではないか。
 
 桓武天皇の閣僚には渡来系の人が3人おりその一人が坂上田村麻呂。渡来系を閣僚級に起用したのは桓武天皇だけ。奈良時代の政争に関与した氏族を避けて、手の汚れていない彼らを重用したのではないか。

桓武天皇陵参道 IMG_2197_convert_20130210192154.jpg
 桓武天皇陵への参道(京都市伏見区)=写真①
 桓武天皇皇后(藤原乙牟漏)陵(向日市)=写真②

 治世の25年は、この時代では第45代聖武天皇と並んで長い。日本後紀延暦24年(805年)12月条には、徳政争論と呼ばれる箇所があり、この間、庶民は軍事(蝦夷征伐)と造作(新都建設)の負担に苦しんだとの指摘がある。だが翌年4月の桓武天皇の葬送について述べたくだりでこの2つを「当年の費(ついえ)と言えども後世頼りとす」と評価している。

 桓武天皇陵は京都市伏見区桃山にあるが、このあたりは豊臣秀吉の伏見城築城で地形が大幅に変わっている。現在の陵は本当に桓武天皇のものかどうかは疑問。
  
 会場からの質問

Q 郊祀を行った交野という土地はどのような土地か

A 都の南郊という条件で選んだ。長岡京のすぐ南は低湿地だったのでここまで行ったのだろう。古墳時代には物部氏の領地だったが、直接の関係はないと思う。(2007年に第26代継体天皇即位1500年にちなむシンポジウムが枚方市で開かれた。樟葉宮の関連だったと思うが、枚方市の交野天満宮の写真が出てきたのを思い出した)

Q 大友皇子について教えてほしい

A 明治になって第39代弘文天皇として皇位が認められた。実際にも、父である天智天皇の死後、おそらく即位したと思う。少なくとも天皇としての国事行為は行っている。日本書紀などの歴史書で即位が記されてないのは当然。壬申の乱の勝者である大海人皇子(天武天皇)にとって、天皇に弓を引いたとされるのは都合が悪い。記録が抹殺されたのであろう。 
  1. 2011/11/13(日) 16:52:19|
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