2017年3月11日(土)快晴 40キロ
場所 岡山県倉敷市
コース 倉敷市役所~粒江小学校~熊野神社~五流尊瀧院~児島市民交流センター~下津井公民館~鷲羽山ビジターセンター~JF岡山漁連ふゅーちゃー
塩業や回船問屋に見る栄華の跡 しばらくウオーキングを休んでいた。少し前に再開したばかりだ。40キロは自信がなかった。だが倉敷ツーデーの初日は「児島、下津井を巡る瀬戸大橋コース40キロこそ値打ちがある」というのが筆者の考えだ。現在の倉敷市は旧倉敷市、児島市、玉島市の3市が合併して発足した。このコースは旧倉敷から旧児島市の中心部を経てさらに南の下津井半島に足を伸ばす。塩業や回船による中継貿易の拠点として江戸時代から栄えた児島市域は、天領であった旧倉敷とは違った顔を持つ。無理をしてでも40キロにエントリーしたい。

写真①=海産物を販売していた郷内婦人会のみなさん
写真②=承久の変で当地に流された頼仁親王の歌碑
出発式では日本ウオーキング協会の堀野正勝会長が主催者あいさつ。「多島美を味わえるコースです。早く歩くことも大切ですが自然や文化をゆったり味わってください」と語った。多島美が味わえるのは下津井半島に入ってからなので25キロを過ぎてからになる。完歩できればいいが、とりあえず昼食場所に指定さえている児島市民交流センターを目指し、余力があれば下津井を目指すことにしてスタートした。

写真①=児島のメインストリートには「ジーンズストリート」の表示があった
写真②=野崎家住宅の中にある茶室
午前7時のスタートとあって真横から陽ざしを浴びる感覚だ。粒江小学校では立ち止まる人は少ない。10キロコースの分岐となる分岐を左に折れて間もなくの場所に能「藤戸」で有名な藤戸寺があるのだが。塊になって歩く感覚だ。20キロコースとの分岐が熊野神社。今年も地元の郷内婦人会のみなさんが海産物などの販売をしていた。ここは20キロコースの昼食場所で、振る舞いの汁物をどう婦人会が担当しているのだが、まだ9時台なので会場のテントは閑散としている。
熊野神社の隣が五流尊瀧院。もとは一つの寺だったのが明治の神仏分離で分かれたのであろう。後鳥羽上皇の子で承久の変でこの地に配流された頼仁親王の歌碑もあった。太平記に登場し、著者の小島法師と同一人物との説もある児島高徳の出生地もこのあたりということだった。

写真①=野崎家の台所では70人分の食事を作った。赤い服の人がボランティアガイドさん
写真②=高さ80センチもある享保雛
児島はデニムの産地。江戸時代の組みひもづくりの技術が近代になってジーンズなどのデニム製品に生きたといわれる。目抜き通りの商店街にはジーンズだけで30軒ほどが店を連ねる。頭上には英字で「児島ジーンズストリート」の旗が掲げられていた。
「ツーデーに参加の方は無料ですからどうぞ」と野崎家住宅の案内係の人が招き入れてくれた。野崎家は江戸時代後期に発祥し塩業で財を成した。母屋は天保年間の建築で縦に9部屋、長さ42メートルある。その横には玄関と客間とを合わせたほぼ同じ長さの棟が幕末の嘉永年間に建てられた。
倉敷市では市民ぐるみで「倉敷雛めぐり」というイベントが開催中。それにタイアップして、ひな人形が多数飾られていた。圧巻は展示室の「享保雛」。岡山藩主の池田家から野崎家が拝領した。冠までで高さ80センチもある。享保は江戸中期、8代将軍吉宗の時代の年号。制作後300年経ったことになる。
裏手は食事を作った部屋があった。70人分。氷を入れて冷やす大正時代の冷蔵庫。野崎家の当主は昭和5(1930)年までここに住んだので大正時代の家財道具が多いらしい。「野崎」の文字が入った提灯があった。暴風の際に提灯を振って沖の船に合図して位置を知らせたという。赤い服のボランティアガイドさんが説明してくれた。

写真①=暴風時に沖の船に位置を知らせる合図を送った暴風提灯
写真②=カキを入れたふるまいの汁物は正午過ぎにはなくなった
ゆっくり見学したので11時半を回ったが、昼食会場の児島市民交流センターは目と鼻の先だ。着くと長蛇の列ができていた。チェックポイントでもあるので証明を受ける列かと思ったが、汁物のふるまいを待っている列だった。チェックを受けてスタート前に注文しておいた弁当を受け取り、汁物は諦めて休憩する。
コースによって汁物の振る舞い場所が分かれているのもこの大会の特徴だ。児島のセンターには毎年下津井の女性が担当し自宅近くの海でとれたカキとサワラ入りの味噌汁を作る。「もう何年やっているか分かりません」とのことだった。正午過ぎには味噌汁も底をついた。

写真①=往時の栄華を今に伝える「まだかな橋跡」の碑
写真②=下津井港の近くで海産物を売っていた
漁船が船腹を寄せ合う下津井漁港に橋の欄干と「まだかな橋」の碑があった。不思議な名前が気になりながらも通り過ぎたが、少し歩いた「むかし下津井回船問屋」で謎が解けた。回船の中継交易でにぎわった江戸時代、遊郭の老婆が舟人に「上がるのまだかな」と声をかけたのが語源らしい。下津井には1957(昭和32)年の赤線廃止令まで10軒以上もの遊郭があったというから、相当な人の行き来があったのだろう。
下津井は現在は漁師町だけに海産物の即売の店があった。女性二人が店番で、年配のほうの方は米寿とのことだった。
自動車道を歩く。やがて右側にピンク色の下電ホテルを目印に、左側の石段を登る。石段は約280段。35キロ以上歩いてきた後だけに周囲から悲鳴に似た声が上がる。登りきったところの鷲羽山ビジターセンターは最後のチェックポイント。中からは休みながら瀬戸内の風光を楽しむことができる。
鷲羽山が観光名所となったのは昭和初期。瀬戸内国立公園制定に合わせてのことらしい。徳富蘇峰らもその眺望をほめたたえており、今は亡き下津井電鉄が鷲羽山駅を新設しアクセスの便を確保した。同電鉄の線路跡は風の道という名のウオーキングロードとして整備されている。その道をたどりながらゴールへと向かう。
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- 2017/03/12(日) 21:21:37|
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2017年2月28日(火) 快晴 22キロ
場所 京都府木津川市、綴喜郡井手町、城陽市
コース JR木津駅~泉橋寺~お茶問屋街~山城老人福祉センターやすらぎ苑~JR棚倉駅~蟹満寺~まちづくりセンター椿坂~谷川ホタル公園~中天満神社~鴻巣山運動公園~水度神社~JR城陽駅
陽気に誘われ歴史の道を満喫 山背古道(やましろこどう)とは、京都と奈良間の山際をゆるやかにうねりながら続いている道だ。1996年、城陽市、井手町、山城町、木津町が、この道をきずなとして街づくりを進めようと山背古道推進協議会を発足させ、城陽市から木津川市まで22キロが整備されている(木津町と山城町は2007年に加茂町を含め合併して木津川市となった)。古墳や社寺が点在し、歴史的にも見どころが多いためウオーカーに人気のあるコースだ。
この日の主催者は奈良県桜井市を本拠とする桜井ウオーキングクラブ。古くからご神体の山として仰ぎ見られてきた三輪山のふもとに位置する桜井市は、大和王権発祥の地として古墳や遺跡が数多く存在し、また山の辺の道の起点でもある。年間計画表を見ると、桜井市周辺を歩く本拠地ウオークと、奈良県外にも足を伸ばす遠征ウオークをほぼ交互に行っているようだ。

写真①=木津川の堤防沿いを行く参加者の列
写真②=泉橋寺の境内には桃の花が満開
この日の京都市の最高気温は10.2度(平年10.9度)。格別暖かいわけでもなかったが、明るい春の日射しに恵まれた。人気の高いコースとあって集合地のJR木津駅には目測で100人以上が集まった。普段の例会の2倍近いらしい。京都府ウオーキング協会の会員の姿も結構あった。
木津川に架かる泉大橋を渡ると日本一の石地蔵のある泉橋寺。寺は奈良時代の僧・行基の建立。鎌倉時代の徳治3(1308)年に造られた石の地蔵は、応仁の乱のさなかに地蔵堂もろとも焼かれて200年以上そのままになっていたが、元禄年間(1688~1703)に復元されたという。高さ4.58メートルあり日本一の石地蔵として有名。門の内側の境内では桃の花が満開だった。

写真①=山城のお茶を集めて海外にまで運んだ歴史を記念する山城茶業之碑
写真②=居ごもり神事が行われる涌出宮
南山城でお茶の栽培が盛んになったのは、木津川市のホームページによると幕末からというからさほど古い話ではない。上狛地区では最盛期に約120件の茶問屋が営まれ,木津川、淀川から神戸港に運ばれ世界各地に輸出されたことから、上狛が「東神戸」と呼ばれるほど賑わいを見せた。現在もこの地区には約40件の茶問屋が軒を連ね、「茶問屋ストリート」とも呼ばれる。2004年には、山城茶業組合創業120周年を記念して、山城茶業之碑が建てられた。
棚倉駅東側にある涌出宮(和伎神社)には居ごもり神事というのがあるらしい。これに基づいてスタッフの一人がうんちく話を披露してくれた、旧約聖書の出エジプト記によると、モーゼに率いられたユダヤ人が、悪霊除けのために門の両側の柱と横木に羊の血を塗り、居ごもりして難を避けたという。この話が日本にもたらされ、赤い鳥居の由来になった、日本ユダヤ同祖論に基づく説らしいが、スタッフ自ら言っていたように、信憑性には疑問符がつく。

写真①=JR棚倉駅前にあった蟹満寺のレリーフ
写真②=井手町の特産タケノコの加工食品
棚倉駅前にはカニのレリーフがある。これは近くの蟹満寺に伝わる「蟹の恩返し」という平安時代の説話集「今昔物語」にも登場する話に由来する。蟹満寺に到着すると別のスタッフがその話をしてくれた。娘をもらいに来た蛇を、無数の蟹が切り刻んで退治する筋書きで、寺は蟹と蛇の供養のため建てられたという。寺では毎年4月の第3日曜に蟹供養放生会を催している。
木津川市域を抜けて井手町に入る。奈良時代の権力者であった左大臣・橘諸兄ゆかりの地で、諸兄を祭神とする橘神社への道標がある。古くから開けた地であったことが分かる。丘陵の中の道を行くと、町が整備した休憩施設「まちづくりセンター椿坂」に到着。ここで昼食タイムをとる。多くの参加者は屋外の階段に腰を下ろして一服。日が射して寒さは感じない。センター内では町の名産のタケノコの加工品や、やはり名産のお茶を販売していた。

写真①=鳥居の前にはたくさんの杖が置かれていた高神社
写真②=青谷梅林の梅はほとんど咲いていなかった
井手町は南の井手と北の多賀に二分される。高神社は古くから多賀郷に住む人の信仰を集めてきた、地区を代表する神社だ。
鎌倉時代の高神社文書には、社殿改築の時に猿楽が奉納されたとの記載があり、日本で最初の猿楽に関する記録の一つとなっている。 谷川ホタル公園の横に鳥居があり、上り坂が続いていた。 鳥居の前には杖が何本も置いてあることから、本堂へは結構険しい道のりかもしれない。。
井手町から城陽市域に入るとこの日のメインの青谷梅林。のぼり旗が道の各所に立てられ、ジュースや梅干しなどの梅製品を扱う店もある。だが肝心の梅は早過ぎたのか、申し訳程度にちらほら咲く程度だった。3月10日には同じく奈良県に本拠を置く大和ウオーキング協会が、梅林を中心に例会を予定している。「その時は満開が期待できると思います」と参加していた同協会スタッフが話していた。
この後はしばらくは自動車道を通る。山手に折れて鴻ノ巣山運動公園に入り最後のトイレ休憩。木製の階段のある山道を一旦下ってから登り返し鴻ノ巣山山頂を経て、今度は一気に下る。水度神社を素通りしてJR城陽駅でゴール。春の陽気に恵まれた気持ちの良い一日だった。
- 2017/03/01(水) 16:50:53|
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2016年5月14日(土) 曇り時々晴れ 14.0キロ
コース 豊公園~滋賀文教短大~福田寺~JR坂田駅~長浜バイオ大学~豊公園
場所 滋賀県長浜市、米原市
彦根城保存に福田寺の貢献 例年出発式を行う豊公園の湖岸広場が改修工事中だったせいか、公園内のテニスコートがメイン会場になっていた。参加者は周囲の観客席に上がって軽食を食べたり地図を広げたり、コート上の売店のブースを冷やかしたりしながら、思い思いに過ごしている。日頃は数々のプレーに沸く、エネルギーの高い場所だけに、セレモニーに使うのも悪くない。そういえば1789年のフランス革命の始まりも、三部会に集まった第3身分(平民)代表によるテニスコートの誓いからだった。
「出発式を始めますのでコートに降りてください」。午前10時のスタートを前に女性司会者が呼びかけると参加者は仮設のステージ前に列を作る。15キロコース、10キロコースの合同だ。藤井勇治・長浜市長が「歴史と文化を味わいながら交流を深めてください」とあいさつ。長浜北中のブラスバンド部によるディープパープルメドレーなる曲の演奏に送られて出発した。

写真①=ゆるキャラ「三成くん」(右端)や藤井市長(その左)に見送られて出発
写真②=息の合った演奏で送り出してくれた長浜北中吹奏楽部
筆者にとっては久しぶりのウオーキング。コースは長浜駅近くの湖岸にある豊公園からJR坂田駅まで琵琶湖岸近くの細長い周回コースだ。この日の彦根市の最高気温は23.5度(平年21.6度)。 日差しは強いが、京都市内で28度まで上がったことを思えば琵琶湖の恵みでしのぎやすい。田植えを終えたばかりの水田に交じって、転作田とみられる麦畑があり、収穫を待つばかりになっていた。
街並みを離れて草むらの中に入ると、地元の環境団体がサンショウウオを展示し、保護活動への協力を呼び掛けていた。近くには生息のための池があり、幼生の姿を液晶画面に映し出してもいた。

写真①=収穫を待つばかりの麦畑
写真②=サンショウウオ保護への協力を呼び掛ける
最近は歩きなれていない上に日差しが強いのでいささか疲れてきたころ、滋賀文教短大の校舎が見えてきてホッとする。女子大生が入口で出迎えてくれる。キャンパスのテントでは飴とゼリーを配っていた。「一人二個を目安にしてください」と張り紙があったが、担当の学生は「目安ですから、3個でもいいですよ」と言って勧めてくれた。

写真①=ゼリーや飴、飲み物で歓待してくれた滋賀文教短大生
写真②=彦根城保存を天皇に頼んだとされる福田寺
JR坂田駅で頼んでおいた弁当を受け取って休憩後、戦国時代に織田信長との抗争で湖北の本願寺信者を束ねた福田寺に着く。説明板によると、住職の妻が明治天皇の皇后のいとこに当たり、明治11年にこの地を訪れた天皇に彦根城の保存を願ったという。彦根城は国宝として残ったが、当時各県庁は城を取り壊した跡に建てるのが一般的だったようだ。彦根城跡に滋賀県庁を持ってくる機会を逃したとの指摘を聞いたことがある。
この辺りまで来ると全コース共通だ。彦根城からくる20キロコース参加者もいれば、はるか東方の柏原宿まで周回してきた人が早足で追い抜いて行ったりする。琵琶湖バイオ大学で飲み物と飴の接待を受けて、琵琶湖岸近くを北上。豊公園に隣接する高層の長浜ロイヤルホテルが段々近づいてくる。
2日目は所用で不参加。今年も1日だけの参加となった。
- 2016/05/15(日) 19:55:11|
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2015年6月21日(日) 23キロ 晴れ時々曇り朝方に小雨
場所 京都市下京区、東山区、左京区、中京区、上京区、北区
コース JR京都駅~西本願寺(豊臣秀吉)~東本願寺(徳川家康)~豊国神社(豊臣秀吉)~知恩院(徳川家康)~二条城(徳川家康)~旧二条城址(織田信長)~京都御苑堺町休憩所~阿弥陀寺(織田信長)~大徳寺(3人)~建勲神社(織田信長)~北野天満宮(豊臣秀吉)~JR円町駅
西は「ひでよしさま」 東は「いえやすさま」 朝6時ごろ、激しい雨音に目が覚めた。至近距離で落雷もあったようだ。ウオーキングは無理かとテレビの天気予報チャンネルを点けると、雨雲の帯が京都盆地から滋賀県方面に抜けていくところだった。次の帯が兵庫県を南北に覆っているがその西には雨雲はない。遅くとも正午までには上がるだろうと読み、参加を決めた。
集合場所の京都駅前広場東側には、細かな雨が降り続いている。そのせいか参加者は普段より少な目だ。赤い羽織を着て豊臣秀吉に扮したコースリーダーが「屋根のあるほうへ入ってください」と案内し、そこで出発式を行った。この日は戦国時代の掉尾を飾る3武将、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の京都におけるゆかりの場所を訪ね歩く趣向だ。

写真①=観光客でにぎわう西本願寺
写真②=東本願寺は門の修理中。南方に京都タワーと京都駅ビルが見える
歩き出した途端雨は止んだ。コースはまず西へ迂回し西本願寺を訪ね、次に京都駅から北へ至近距離の東本願寺に戻る。室町時代の蓮如の時代に一大武装勢力となった浄土真宗は、戦国時代には大阪・石山に本拠を置いて天下布武を目指した信長に対抗した。泥沼化した戦の凄惨さに、信長方の大将・荒木村重は嫌気がさし謀反を起こしたと、2014年NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」に描かれていた。
やがて朝廷の仲介で和睦が成立する。石山から退去した本願寺教団は、本能寺で信長が横死した後、天正19(1591)年に秀吉から顕如の三男で和睦派の准如が京都・六条堀川の地を与えられた。わずか11年後の慶長7(1602)年、家康は滋賀県長浜市の五村別院にいた長男で強硬派の教如を取り込み東六条に寺地を与えた。西と東の本願寺分立だ。強大な教団を分割支配する意図があったのだろう。
東本願寺は西本願寺から分家する形でできたので、宝物の多くは西に残ったと、梅原猛氏の著書にあったように覚えている。

写真①=秀吉を祭神とする豊国神社に入る
写真②=「国家安康」の文字が刻まれた方広寺の鐘楼
建立時のいきさつもあって、幕末になって東は佐幕、西は勤王と路線が分かれた。勤王の志士の取り締まりに当たった新選組が西本願寺を屯所にしたのは、勤王派の拠点に乗り込み牽制する意味があった。
下って昭和30年代の話だ。東本願寺向かいの門前町内に「おしゃかさま、しんらんさま、れんにょさま」という看板が出た店があった。恐らく経典など仏教関係の書籍を扱う店で、子供向けの本も置いていたのだろう。東本願寺が今も全国の末寺を通じて多数の檀家を抱えていることを思えば、筆者としては建立の恩人である「いえやすさま」も看板に付け加えたい気がしている。
さらに下ってバブル経済爛熟期の平成2(1990)年だったと思う。京都市中心部では地上げ屋が横行し、億ションと呼ばれる高級マンションが乱立した。京都駅前の塩小路通りから数十メートル北の七条通りにかけて材木町と呼ばれる狭隘な民家の密集する地域があった。地上げ屋は家屋の所有者だけでなく借家権の持ち主に対しても大枚はたいて個別撃破したのだろう。通りかかるたびに取り壊された更地が増え、軒続きの家がなくなって青いビニールで雨露をしのいでいた陋屋が目立った。

写真①=知恩院の門を出て再び市街地へ
写真②=二条城入場券の購入に列
民家の取り壊された更地の路地を歩いていると背広姿の男に誰何された。マスコミの人間と思われたらしい。何が建つのか聞いたらホテルだといった。腹の探り合いである。その後時代は不動産融資への総量規制などバブルつぶしへ動いた。地上げは完了し材木町は消滅したが、ホテルは結局建たなかった。今も駐車場になったままだ。
地上げの波が七条通りを越えて北上するのではないかと気になった。だが職場の事情通の先輩は「東本願寺の門前町に当たるから大丈夫だ」と保証してくれた。広大な寺地が大規模開発を阻むから、との理由だったが、京都では大寺院が隠然たる力を持っている事情もあったのかもしれない。いずれにしても七条以北では、店主の高齢化による店舗の廃業など個別の事象はあったが、共同体を破壊するほどの地上げの波は来なかった。
東本願寺は門の工事中なので立ち入らず、同寺の庭園・枳殻邸の北側から鴨川に架かる正面橋を渡ると、真東に豊国神社が見えてくる。秀吉を祭る豊国神社は徳川幕府崩壊後の慶応4(1868)年の建立。中には大阪の陣の発端となった「国家安康」の文字の入った釣鐘があった。

写真①=今は碑だけが残る信長の旧二条城
写真②=「参加者は130人です」と発表があった
建仁寺近くの高級料亭街から知恩院に向かう。女坂と呼ばれる坂道を登り休憩所で一休み。雨が上がって日差しが相当強くなっている。
知恩院は鎌倉仏教の一つ、浄土宗の総本山だが、現在のような広大な伽藍を有するようになったのは慶長13(1608)年から後、浄土宗徒でもあった家康による寄進を受けてからだという。
東山山麓の知恩院から西に向かい二条城に至る。東西ジグザグにたどりながらだんだん上がっていくのがこの日のコースの特徴だ。二条城は京都における徳川幕府の拠点として築かれたが、それに先立って信長が築いたのが旧二条城。室町幕府15代将軍の足利義昭のために永禄12(1569)年に建てたが、義昭追放後に取り壊し、資材は安土城建設に流用したという。平安女学院の一角に碑が残っていた。
京都御苑に入り堺町休憩所近くの木漏れ日の中で思い思いに弁当をとる。参加者130人との発表があった。朝方の雨で諦めた人が相当数いた模様だ。出発の際にコースリーダーは「織田がつき羽柴(秀吉)がこねし天下餅 座りしままに食うは家康」の有名な狂歌を紹介し、「家康のようにおいしいところだけ持っていく輩はどこの組織にもいます」と言って参加者を笑わせていた。
京都御苑から北東の出町商店街近くにある阿弥陀寺を目指す。本能寺の変の後、同寺の住職で信長と親交のあった清玉上人が、20人ばかりの僧を引き連れ焼け跡から遺体を探して寺に埋葬したという。信長、信忠父子のほか、森蘭丸ら近侍の墓もあった。

写真①=阿弥陀寺の信長の墓に参る
写真②=建勲神社で最後の列詰め休憩
寺町通り、鞍馬口通りを経て大徳寺に着く。23キロという例会としては長距離なので、このあたりでは足元のおぼつかない人もいたようだ。大徳寺には多くの塔頭寺院があり、ゆかりを持つ戦国武将は石田三成や細川忠興ら3人以外にも多い。2014年2月に急逝した直木賞作家の山本兼一氏は、同寺のある鳳徳学区の出身。寺を歩いてイメージを膨らませたことが「火天の城」「利休にたずねよ」などの文学に結実したのだろう。
明治政府が信長の天下統一に向けた功績をたたえ祭神として祀ったのが建勲神社。豊国神社もそうだが信長、秀吉の復権によって幕府の消滅とご一新を印象付けたかったのであろう。ここで最後の列詰め休憩をとった。コースリーダーが「空模様が覚束ないのでアンカーを待たずに出発します」と告げたところ、「雨が降り出すのとゴールするのとどっちが早いかやなあ」と参加者の一人がつぶやいていた。
秀吉が大茶会を開いた北野天満宮を経て円町駅でゴール。幸い夜になるまで、再び雨の降ることはなかった。
- 2015/06/21(日) 19:39:53|
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2014年11月8日(土)37キロ 曇り
場所 兵庫県加古川市
コース 中央会場(加古川市役所前広場)~加古川市防災センター~水管橋~権現ダム~円照寺~安楽寺~志方八幡神社~観音寺(志方城址)~長楽寺~常楽寺(神吉城址)~ウエルネスパーク~升田会館~称名寺(加古川城跡)~中央会場
名物の味は売り切れ 日暮れて道遠し 前年の西北コースは20キロに参加し、数々のおもてなしを受け楽しい一日を過ごした。ことしは40キロに挑むことにした。加古川市の中でも最北に位置する志方町を回る。2014年にNHK大河ドラマで「軍師官兵衛」の放映により、主人公・黒田官兵衛の妻・光姫の生まれ故郷として注目を浴びた土地でもあり、一度は訪ねたいと思ったからだ。
京都から通いで参加するため、40キロに間に合うためにはJR京都発5時20分発の快速電車に乗る。それでも7時からの出発式は間に合わない。JR加古川駅から市役所まで10分少々歩いて、受付を済ませてゼッケンを装着し、スタートチェックを済ませた時には7時40分を回っていた。健脚自慢の参加者はほとんど出発済みで独自の歩行を強いられ、後述のようにこの出遅れが最後まで響いた。

写真①=振る舞い第1号はことしもたこせん。
写真②=一杯100円のまちこんうどんに舌鼓を打つ。
街並みを抜けて防災センターの角を鋭角に曲がり加古川河川敷に入る。青いアーチの連なる水管橋の手前が第1チェックポイント。ことしも隣り合う二つのテントでファミリーサポートセンターがたこせん、兵庫県自動車整備協会加古川支部がジュースなどの飲み物で迎えてくれた。
橋を渡って間もなく20㌔コースとの分岐点。ここからは筆者にとって未知の領域だ。農村風景の中を歩いて権現ダムに着いた。市職員とボランティアの人が「まちこんうどん」を販売していた。一杯100円。天かすがたくさん入っているのが特徴だ。堰堤を渡ってダムの南側を四分の一周ほどしてから円照寺に向かう。前も後ろも人がいないといささか不安になってくる。

写真①=円照寺では歴史ボランティアの皆さんが紙芝居の上演
写真②=「やさしく撞いてください」とあった円照寺の梵鐘
志方町では戦国時代の史跡が次々登場する。円照寺の梵鐘は豊臣秀吉が中国平定の戦いで、山口県の上野八幡宮の鐘を陣鐘として使い、帰京の際にこの地に置いたと伝えられる。「500年使われた鐘なのでやさしく撞いてください」の張り紙があった。
志方歴史ボランティアの会の皆さんが「城山物語」という紙芝居を上演していた。城山は播磨守護の赤松氏が城を築いた山で、その際、山頂にあった安楽寺はふもとに移されたという。
展望が開けた高台の志方八幡神社で、ぜんざいの振る舞いがあった。社殿の休憩所に上がらせてもらって景色を楽しみながら舌鼓を打つ。続く観音寺は志方城址。城主を務めた光姫の兄・櫛橋左京進が織田方に攻められ自刃した地でもある。
織田と毛利の抗争は一直線に決着したわけではない。官兵衛の説得で一旦は播磨を挙げて織田についた。だが別所長治が毛利方に転じたため織田勢は最西端の上月城を放棄するなど戦線縮小を余儀なくされた。「軍師官兵衛」では光姫(中谷美紀)が毛利についた兄の左京進(金子ノブアキ)の説得に行き失敗。官兵衛の父、黒田職隆(柴田恭兵)から叱責される場面があった。二大勢力に挟まれた小領主の過酷な運命を思う。

写真①=紅葉が色づいていた安楽寺。
写真②=志方八幡神社ではぜんざいの振る舞い。
長楽寺は「木造地蔵菩薩半跏像」が本尊。秀吉の播磨攻めの際、住職が抱いて身を隠し守ったと言われる。2011年の台風12号禍で本堂が流失し更地になっていた。再建のための募金を募っていた。そんな中でも「寺では今年柿がたくさんとれたましたから、皆さんに食べてもらおうと思いました」と、皿に切って勧めてくれた。甘かった。もう一切れ欲しいと思ったが、石段を降りた後で登り返す気力はなかった。
西神吉小に入っていった。マップに「ばくだんコロッケ販売中」とあったので楽しみにしていたのだが、筆者が到着する10分前の2時過ぎに売り切れたらしい。やむなく20本ほど残っていたフランクフルトソーセージを150円で買って休んでいると、高校生風の一団が到着して、こちらも間もなく売り切れてしまった。
ようやく20キロコースとの合流点・ウエルネスパークに到着。まちこん鍋をいただく。昨年に20キロ歩いているのでここからは土地勘があるが、残りまだ7.3キロある。

写真①=観音寺では光姫の人生を紙芝居で上演していた
写真②=長楽寺の本堂は台風12号で全壊し更地になっていた。
加古川市東神吉町の升田地区には、今年もユニークなかかしが並んだ。300世帯ほどあるが、かかしを作る人は2、3人に限られる。長く作ってきた女性が先年亡くなった。息子さんは「1年に10体ほど作っていたようです。でも鬼は手間がかかるのか、年2体程度でした」と話してくれた。今年は官兵衛と光姫夫婦も新登場。全部で126体あり普段は升田会館で保管するという。
升田会館はぜんざいがすっかり名物になっているが、案の定売り切れていた。地区の役員が「甘汁を100円で売っています。いかがですか」と勧めてくれたが、そう言ってくれているうちになくなってしまった。

写真①=長楽寺では「柿がたくさんとれたので」とウオーカーに振る舞ってくれた。
写真②=ウエルネスパークのまちこん鍋も残り少なくなっていた。
加古川河川敷に出る。昨年は和太鼓演奏や凧揚げなど祭りでにぎわった場所だが、片づけも終わっている。コース後半はどこも宴の後のさびしさに満ち満ちている。
本町のチェックポイントでは押印を受ける。この場所はまちづくりグループの焼きそば販売などにぎわったはずだが、すでに店じまいしている。唯一サツマイモスティックの店が店じまいの途中で「食べて行ってください。もう少しですよ」と試食を勧めてくれた。残り1.6キロだ。

写真①=今年から新登場の官兵衛くんと光姫ちゃん。
写真②=鬼のかかしを作るには1体につき半年かけたという。
午後4時を回ってだんだん暗くなってくる。「人にはどれだけの土地が必要か」とかいう題のトルストイの民話を思い出す。日の出から日の入りまでに歩いて囲った土地がすべて自分のものになるという話だった。主人公のロシア農民・パホームは、夕方近くなって大あわてで丘の上のスタート地点を目指す。最後の力を振り絞って登り切り、売り手の地主らに祝福されたところで息絶えた。埋葬された土地はわずかに体が入るだけの広さだった。
パホームの契約を当てはめれば、志方町も神吉町も含め加古川市域のかなりの部分が筆者のものになるわけだから、一歩の積み重ねは馬鹿にならない。
最後はJR加古川駅近くのメインロードを通り、市役所前広場にゴール。時刻は午後4時40分。あたりはすっかり暗い。にぎやかだったはずの模擬店通りも後片づけが終わりかけていた。早々に退散するしかない。駅に向かう途中、昨年泊まった加古川プラザホテルがあった。予約しとけばよかったなあ。
翌日は20キロ歩くつもりだったが、すっかり疲れてしまって、京都から加古川までの2時間の道のりが億劫に感じられ、雨模様だったのを言い訳にして不参加を決め込んだ。尻切れトンボの幕切れになってしまった。
- 2014/11/09(日) 11:14:54|
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2014年11月3日(月・文化の日)22キロ 快晴
場所 埼玉県東松山市、比企郡鳩山町
コース 中央会場・松山第一小~唐子中央公園~岩殿観音正法寺~埼玉ピースミュージアム~東京電機大理工学部~千年谷公園~東武東上線高坂駅~かかしストリート~中央会場
完歩ならずも 感謝の3日間 ウオーキング大会の出発場所で参加者に折鶴を手渡してくれることから、「鶴おじさん」として知られる西川恭一さんは埼玉県さいたま市在住。日本スリーデーマーチに訪れる外国人に手渡していたのが始まりだが、日本人のウオーカーにも人気を得て、今は欲しい人には国籍を問わず手渡している。地元だけに今回はご夫婦で折鶴を手渡していた。
西川さんに影響されたかどうか知らないが、コース上で折り紙の手裏剣やかぶとを外国人に手渡しながら歩いていた児童を見かけた。大会は東松山市の一大イベントであり、一万人を超す参加がある。外国人も数多い。そのもてなしが文化として教育現場に根付いているのかもしれない。

写真①=鶴おじさんこと西川恭一さんは、地元とあって夫婦で折鶴を配っていた
写真②=岩殿地区の由緒について説明するボランティアガイドさん
唐子中央公園では地域のお祭りだろうか、多くの店が出て果物や飲み物を販売していた。近くに湯茶の接待もあった。中学生ボランティアらが打木村治の小説「天の園」をNHK朝ドラに採り上げてくれることを求める署名活動を行っていた。
「天の園」は、明治後半から大正時代、打木が小学校時代を過ごした唐子村(現在の東松山市唐子)を舞台に描かれた全六部の長編小説で三大児童文学の一つと言われる。主人公は、小学校時代の作者がモデルの「河北保」。小学校6年間の成長の過程が学年ごとに1冊ずつ収められる。
小説には、都幾川や農村の豊かな自然の中で、伸びやかに遊ぶ子どもたちや、その成長をやさしく見守る大人たちがたくさん登場し、地域の人々との交流を通してたくましく成長する様子が情緒豊かに描かれているという。地元のすぐれた文学は、児童らが郷土愛に目覚めるきっかけにもなるであろう。東松山市の児童の幸運を思う。
筆者は三つのうち「路傍の石」「次郎物語」は読んだが「天の園」は知らなかった。近くに碑があったらしいが気づかず通り過ぎてしまった。

写真①=古色蒼然とした正法寺の観音堂
写真②=ミュージアム入口付近にあった。松やにを燃料にする機械らしい
坂東十番札所・岩殿観音正法寺の門前町に当たる岩殿集落に入っていくと、各民家の前に板張りで「堺屋」「海老屋」といった屋号が記されていた。寺で説明してくれたボランティアガイドの方によると、江戸時代になると荒川から都幾川や市野川を遡上して魚が運ばれ、岩殿の丁字屋という料亭が有名だった。民家の屋号は当時、観音詣での客相手の宿などを営んでいた名残らしい。
正法寺は奈良時代の開山だが、鎌倉時代初期に源頼朝の命で比企能員が復興。後に徳川家康より寺領二十五石の朱印地を与えられたという。周囲12メートル、樹齢700年の大イチョウが見事だ。
30キロコースと分かれてほどなく埼玉ピースミュージアム(埼玉県平和資料館)に着く。畳と障子とちゃぶ台のある民家の一室が戦時中の生活として展示されていた。筆者の皮膚感覚では昭和30年代まではこのような家はざらだった。40年代の高度成長期に急速に消えていったような気がする。 2.26事件で死刑になった青年将校の遺書や大政翼賛会の資料もあった。
エレベーターで展望塔を昇った。関東平野が一望できるとの触れ込みだったが、平野が広大すぎて富士山や東京スカイツリーは確認できなかった。

写真①=東京電機大のバドミントンサークル「Raccoon」のみなさん
写真②=千年谷公園では民俗芸能祭が開かれていた
東京電機大理工学部が鳩山祭という学園祭を開いていた。何か腹ごしらえをしたいと思い入ってみた。今川焼を一個50円で売っていたので2個購入し歩きながら食べる。「Raccoon」というバドミントンサークルが出していた店だった。
東松山市民俗芸能祭が開かれている千年谷公園は、恒例の豚汁会場らしい。入口でチャリティーに協力すると黄色いプラスチックの札をくれる。それを調理場のテントに持参すると豚汁と引き換えてくれる。当初チャリティーに協力しなかったのにテント前で勧められて食べてしまった。後払いになったが代金として100円、募金箱に入れる。
広い歩道に様々な芸術作品の飾られた道を通り、東武東上線高坂駅が近づいてきた。東松山駅から一つ池袋寄りだ。コースは駅をまたいで線路東側を通る。残りあと6キロ。1時間強かかる。ここでふと考えた。
連休の最終日で帰りの新幹線は混雑が予想される。ゴールして中央会場から東松山駅まで歩くと2時間近くは確実に遅れる。時刻は午後零時半過ぎ。高坂駅から乗ってしまえば日のあるうちに京都に帰れる。そこで駅前で立ち番をしていたスタッフにお礼を言って、コースアウト。東武東上線急行、山手線、新幹線を乗り継ぎ逃げるように京都を目指した。帰着は午後4時15分。座席も確保できたし早帰りは成功だったと思う。
完歩できればそのほうがもちろん良いが、問題は自分が満足できたかどうかだ。コース上や宿泊先では様々な人に励まされたり冷やかされたり、接点を持つことができた。有意義な三日間だった。次回はもう一泊する覚悟でフィナーレのイベントまでじっくり味わいたい気がしている。
- 2014/11/03(月) 21:36:02|
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2014年11月2日(日)31キロ 晴れのち曇り
場所 埼玉県東松山市 比企郡吉見町、滑川町
コース 中央会場・松山第一小~吉見百穴~吉見観音安楽寺~松の平団地~平野市民活動センター~森林公園~中央会場
コーヒーや梨…広がる草の根交流 前日と同じ時間のバスで午前8時前に中央会場に着いた。「30キロコース参加の方は急いでください。間もなくアンカーが出発します」のスタッフの声がする。20キロに参加の予定でいたが、朝日新聞の特集紙面で「30キロコースの途中に梨の振る舞いがあります」との記事に魅かれてもいた。体調もいいので思い切って30キロに挑むことにした。
グラウンドを一周してから出発ゲートに向かう。中学生が様々なボランティアとして運営に協力しているのもこの大会の特徴だ。両側に花道を作ってハイタッチで送り出してくれた。

写真①=中学生ボランティアが花道を作って送り出してくれた
写真②=弘法大師ゆかりの岩室観音
大きな岩をくりぬいたホテルが廃業しているのが目に入った。その隣が岩室観音。平安時代の初め、弘法大師空海がこの地を訪ね、観音菩薩を刻みこの岩窟に収めたという。お堂は小型ながら京都・清水寺と同じ造りといい、上がって眼下を参加者が通り過ぎるのを見ると足がすくんだ。
さらに隣が吉見百穴。昔は古代の住居跡といわれていたが、近年の発掘調査により、古墳時代の横穴墓群ということが分かった。家族で死後も同じように暮らせるようにと、勾玉や土器などが副葬されていた。 穴は219。大小さまざまで、上の方にあるものほど、間隔が広く、中もゆったりと作ってあるらしい。
ガイドウオークの案内もしていた。金網越しに横穴が見えたので写真に収めた。

写真①=吉見百穴の入り口。ガイドウオークもあるらしかった
写真②=吉見百穴の洞窟を金網の間から撮った
吉見百穴が20キロコースとの分岐点。30キロとしては少し遅めなのだろう。多くは20キロコースをとった。しばらくは田園風景の中を歩く。源範頼の館跡とされる息障院の前を通り過ぎる。
「今年は50キロ歩きます」とゼッケンに書いた児童が追い抜いて行った。このあたり50キロと30キロの共通コース。50キロ参加の人は南へ大きく迂回してからここまで来たことになる。しばらく同じコースをとるが、再び分かれ今度は北東に大きく迂回する。

写真①=源範頼の居館跡、息障院
写真②=吉見観音の名で知られる安楽寺に到着
吉見観音の名で知られる坂東十一番札所安楽寺に到着した。赤い仁王像の山門をくぐり古い拝殿にお参りする。奈良時代に行基が観音像を安置したのが始まり。室町時代後期に北条氏康と上杉憲政の松山城合戦の際にすべての伽藍は焼失した。現在の本堂は江戸時代前期・寛文元(1661)年の再建という。
折からの好天で一休みするウオーカーも多い。コースは三重塔の横から寺を離れ、八丁湖公園の遊歩道をたどる。
住宅地の中で女性らがコーヒーを提供してくれていた。「どちらの団体ですか」と質問すると「団体ではなく個人」と先に飲んでいた参加者の一人が代わりに答えてくれた。接待の主は、ここ松の平団地の仁井谷正子さん。13年前から毎年続けている。

写真①=安楽寺の本殿にお参りする
写真②=自宅前でコーヒーを提供してくれた仁井谷さん(左)と仲間のみなさん
松の平団地は約30年前に開発された住宅地。仁井谷さんはもともとお祭り好きだが、越してきた当初は知り合いがおらず寂しい思いもしてきた。自宅前がウオーキングイベントのコースに当たり多くの人が通ることを知って、コーヒー提供を発案。毎年やっているうちに近所の仲間が一緒にやってくれるようになったという。
朝日新聞の埼玉西部版でも採り上げていた。ウオーカーの中にはお返しに仁井谷さんにコーヒー豆をプレゼントした人もいたという。
コース上では他にも「お一つずつどうぞ」と箱一杯に飴を入れたり、「つまんでいってください」と梅干しを並べたりの無人接待所があった。

写真①=チェックポイントも中学生が担当
写真②=「いくらでも食べてください」。東平梨組合から梨の提供。
チェックポイントのある平野市民活動センターでは、東平梨組合のみなさんが梨を無料で配ってくれた。提供された品種は「新高」.。赤ナシで甘く酸味があり、果肉は歯触りがいいという。梨は8月の「幸水」から始まって「豊水」「彩玉」「あきづき」など続く。「新高」は10月上旬までが収穫期だが、「この日のために冷蔵庫で冷やして保管しておきました」とのことだった。
用意した梨は1000個以上。長テーブルを縦につないだ上に大皿が6個ばかり置かれ切った梨が山盛りだった。甘くて水気もたっぷりで、いくらでも食べられそうだ。組合役員が「お好きなだけどうぞ」というのに甘え、丸1個分以上も食べてしまった。

写真①=森林公園の園内バス。大人1乗車200円。
写真②=ゴールして記念撮影する外国から参加のみなさん。
森林公園内を約3キロ通り抜ける。東松山市街地の狭い道に入ってきた。ここは全コース共通なので道は人でいっぱいだ。スタッフが「左2列でお願いします」と声をからしている。ここは流れに乗っていくしかない。
緩いペースに少々焦れながらもやがてゴール。中央会場のステージ前では外国人グループが一角を占め、記念撮影などに興じていた。前日と打って変わって模擬店は大にぎわい。祝杯を挙げたいと思ったがテント内も満員で、この日も早々に退散するしかなかった。
- 2014/11/02(日) 21:21:58|
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2014年11月1日(土)21キロ 雨
場所 埼玉県東松山市、比企郡嵐山町
コース 中央会場・松山第一小~鬼鎮神社~菅谷館跡・県立嵐山史跡の博物館~原爆の図・丸木美術館~箭弓稲荷神社~中央会場
福は内、鬼は内、日本人も外国人もみんな内 この秋に筆者が参加するウオーキングイベントはおおむね近畿に限られるが、唯一の遠征が埼玉県の日本スリーデーマーチだ。日本を代表する大会と位置づけられ、外国からの参加も多い。せっかくの遠征だから立派な宿を取ろうと国立女性教育会館に申し込んだら、そこは外国人主体の宿だった。
オランダのナイメーヘンという町ではフォーデーマーチを開催している。日本のウオーカーもいつか参加したいと夢をはせる人は少なくない。日本スリーデーマーチも海外からはそう見えるのだろう。会館の専用フロントには日本以外に12か国・地域の表示があり、国・地域ごとにルームキーが並べてあった。

写真①=鬼鎮神社拝殿にあった鬼を描いた額
写真②=近くには鬼のレリーフも置かれていた
ロシアを含むヨーロッパ諸国は放射能に敏感だ。2011年の東日本大震災の影響で一時は参加者が大幅に減った。昨年から少し持ち直している。熟年夫婦と家族連れが多い。ウオーキングをリタイア後の趣味としている事情は日本と同じなのだろう。筋肉質の人もあんこ型の人もいるが大柄な人ばかりだ。
海外旅行で開放的になっているのだろう。国は違っても英語でコミュニケーションを取り合っている。深夜まで談話スペースで酒盛りをしていた人もいたという。
日本スリーデーマーチには数万人という人が集まるだけに独特の運営方法をとる。まず朝が早い。50キロコースが午前6時出発。30キロは午前7時だ。出発式はいずれも15分前から行う。20キロ、10キロコースは出発式を行わない。その代わり30㌔コースと同時に繰り上げスタートしていいことになっている。大人数をさばく一つの知恵なのだろう。

写真③=国際色豊かなのもこの大会の特徴。ロシア国旗とともに歩む一行。
写真④=越生町名物の一里飴を振る舞ってくれた。
筆者が着いたのは午前8時。既に出発式は終わりステージ上では男女の司会者が掛け合いトークをしながら、三々五々出発するウオーカーを見送っている。一方では到着したウオーカーが受け付けを済ましてゼッケンに名前と県名を記入しているが、雨宿りできるスペースが限られているので、テント内はごった返している。模擬店では名物のB級グルメも多数そろっており、晴れていれば冷やかして歩くのだが、あいにくの雨とあってすぐ出発した。
東松山の市街地を抜け、東武東上線森林公園駅の前を通り、市野川に沿って歩く。途中、滑川町婦人会による甘酒の接待をいただく。
鬼鎮神社(きじんじんじゃ)に着く。源平時代の寿永元年(1182)創建で畠山重忠が菅谷館を築造したときに東北の方角の守りとして祭ったと伝えられる。全国でも珍しい鬼を祭った神社で、節分祭の掛け声は「福は内、鬼は内、悪魔は外」だという。

写真①=菅谷館跡にある畠山重忠の像
写真②=常連の参加者も多い。過去の大会のゼッケンをつなぎ合わせて自慢のウエアに。
菅谷館跡に着いた。北武蔵の比企城館址群の中心。鎌倉幕府草創期の武将・畠山重忠の館跡で、二の郭には1929(昭和4)年築造の重忠の像もあった。館址の一画にある埼玉県立嵐山史跡の博物館が給水ポイントになっており、スタッフが一里飴という越生町名産の飴を配ってくれていた。
37回も続いた大会なので常連の人も多い。かつては布製のゼッケンだったのだろうか。縫い合わせて着用している人もいた。
原爆の図丸木美術館は「原爆の図」など丸木位里、俊夫妻の描いた作品が収められている。地元のボランティアガイドが多数詰めてくれているのだが、入る人は少ないようだ。筆者も敬遠してしまった。だがウオーキング中に原爆やアウシュビッツ、南京大虐殺、水俣病といった重いテーマに向き合って打ちひしがれるのも学びであった。せっかく訪ねたのに見ずに帰ったことを今となっては後悔している。
美術館前には福祉系NPOなどが店を出している。ミネストローネやたい焼きなどが人気を集めていた。また雨が降り出したので参加者は東家風の休憩所の屋根の下に密集していた。

写真①=雨の中、丸木美術館に到着。
写真②=たい焼き店などの模擬店が軒を並べていた。
箭弓稲荷神社は日本スリーデーマーチ発祥の地と言っていい。会場が東松山市に移った第3回から6回までメイン会場だった。ことしは全コースが通過するようになった。境内を出たところに大学生がデザインした創作いなりずしを販売していた。狐の顔を描いた武蔵丘短大の作品と、おでんのように三個を串に刺した城西大の大学院生の作品があり、「いろり茶屋」という近くの料理店が商品化したという。

写真①=東松山市での当初のメイン会場だった箭弓稲荷神社
写真②=学生と料理店のコラボで開発した創作稲荷ずしを販売していた。
そろそろゴールだろうと思いながら歩いていると、東武東上線の線路のところに「あと1キロ」の表示が見えた。「この1キロが長いんだよ」と周囲の参加者から悲鳴のような喚声が漏れる。ドイツに本社のある輸送機器メーカー「ボッシュ」の工場内でドーナツをもらったり、美土里町の人たちが育てた草花の飾りつけを眺めたりしながら、ようやくゴールした。
完歩を示すシールをもらってステージ前に行くとグランドは水浸し。わずか20~30人程度が取り囲んで見ているが、傘を差しながらでは落ち着かない。みそ焼き鳥などのB級グルメをつまみに祝杯を挙げたくてもテント下の休憩所は人であふれている。早々に退散するしかなかった。
- 2014/11/01(土) 21:43:27|
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